「小倉洋平です。中学ではサッカーやってました。よろしくお願いします」
 何の変哲もない、他の新入部員たちとも一線を隔す事のない普通の挨拶だったと思う。記憶が曖昧だから、きっと辺鄙だったり、突拍子もないものではなかったのだろう。
 文芸部への志望動機は「本を読むのが好きだから」で、特に多く読むジャンルは推理小説。少し雑な文字で、自己紹介欄にそう書かれている。しかしその他は「特に無し」で、それは実際に無いのか、語りえる言葉を持たなかったのか、今となっては不明である。
 これだけなら、幽霊部員と判断してしまうのが普通だと思う。しかし小倉洋平は毎日部活に顔を出し、精力的に活動に取り組んでいた。部誌の製作と発行、部室の整理整頓、作家についての討論、挙げるとキリはあるが考えるとなるとキリがないので、ここまでに留めておく。
 その熱心さにより一学年修了時には副部長になり、途中加入の部員も増え、文系一の部として現在も続いているらしい。一昨日偶然再会した後輩だった子(今は副部長)が、嬉しそうに語っていた。
 気になったので、三年生になったであろう小倉洋平の近況等を訊ねてみた。すると、予想通り、
「相変わらず部長で、今も頑張ってます」
 安堵する。
 そう、それだけが心残りだった。元気で頑張ってるなら、とりあえず心配する必要はなさそうだ。
「……あ、そうだ。一つだけ分からない事があるんですよ」
 しばらく話し込んでから、何かを思い出したようだ。……まあ、内容の見当は付くが。
「小倉君、作品を一つ仕上げたんですよね、昔。それはいいんですが、その冒頭の一文と最後が、どう考えても本編とは全然関係なくて、伏線でもなんでもないんですよね。どう思いますか?」
 首を傾げられる。消えた心残りの代わりに、一時的な心当たりと言う名の一個師団が台頭する。
「あ。いくら先輩でも、言わないとわからないですよね、えーっと確か……」
 言われる前に、迷わず口にした。
「『ザ・ロケットフィンガーNO.5』、始まりは『僕の小指は、希望と、ほんのちょっとの後悔で出来ています』、締めは『僕の小指ですが、今はただの小指です』……これで合ってたっけ?」
 目を見開き、唖然としている。無理もないが。
「まあ卒業前に小倉君と話してね。その時にそのネタ、聞いたんだ」
「へぇ、かなり前から構想はあったんですねー」
「まあね。……小倉君、書くの遅いから」
「あー……そう言えば、そうでしたね。あんまりみんなが普通に接するから、失念してました」
「その方がいいよ。これからも」
 かく言うわたしも、言いながら思い出したクチである。まあ、忘れてた方が双方にとっても彼にとっても良かったのだが、思い出してしまったのならば仕方が無い。
「あ、ひとつ思いつきましたよ、冒頭と終わりがなんであんななのか」
 む、と気付かれないように唸った。ひとつ、と彼女は言ったが、こんなでも文芸部の副部長。おそらくは、限りなく真実に使い回答を提出するだろう。
「ほう、副部長としての力量が試されるね」
 我ながら意地が悪いと思うが、これがせめてもの抵抗である。許せ。
「プレッシャーかけないでくださいよー、意地悪いなぁ」
 そんなわたしの影の努力はあっさり徒労に終わる。
「おそらく、あれは誰かへのメッセージなんですよ。ミステリーサークルとかストーンヘンジみたいな、抽象的でいて視覚的な」


 小倉洋平には右手の小指が無い。しかし、だからと言って「詰めた」とかではなく、単に事故らしい。
 ただそれだけであり、別にそれが原因で心の深い傷を負ったとかそのようなドラマ的要素は一切無く、彼自身はどこにでもいるありふれた高校生だった。
「なんでサッカー部、入らなかったの?」
 そう、当然。無いのは右手の小指なのに、彼は足と脚ではなく、手とペンを選んだのだ。聞きたくなるのが人情ってものだろう。
「ああ、俺、ゴールキーパーだったんですよ」
 ああ、なるほどねえ。
「それにほら、小指がないと、やっぱりそれを『可哀想』の対象として見てくる奴がいるんです。まあ、ごく少数ですけどね。そういう奴らに証明の意味もこめてですよ。あろうがなかろうが、ってね」
 ああ、なるほどねえ。
 思わず二重に頷いてしまうほど、なるほどだった。
「ぶっちゃけ、筆頭は両親なんですけどね」
 今度は、なるほど、とは思わなかった。
 おそらく彼の日常生活から、やらなくなった『サッカー』の単語を極力排除しているのだろう。両親にとっては優しさかもしれないが、小倉洋平から見れば窮屈そのものなのだ。
 しかし、わたしに出来る事と言えば。
「まあ、そんなもんだよ」
 そんな月並みであやふやな言葉だけ。小倉洋平は穏やかに微笑んではいたが、その心情が表面と同一とは限らない。


 事故の状況は、極めてシンプルである。
 小倉洋平の運転するマウンテンバイクに信号無視の4tトラックが衝突。自転車は大破で、トラックは中破。運転手は執行猶予無しの懲役六年を言い渡され、現在も服役中との事。
 その事故が原因で大層な怪我を負ったそうだが、奇跡的に回復し、すっかり健康になった。
 ただ違う点を挙げると、ひとつだけ。
 簡潔に述べよう。右手の小指は、現在も見つかっていない。
 当時の事を笑い飛ばしながら語った小倉洋平は「それじゃあ文芸部っぽく考えましょう」と、また笑った。
「きっと、俺の小指は着脱可能だったんですよ。ホーミング機能なしでワイヤレス。ロケットパンチならぬロケットフィンガーですね」
「いや、全然文芸部っぽくないからそれ。わたしなら、うーん、そうだね。『今、右手の小指は音速で偏西風に乗っているでしょう』かな」
「うわ、やっぱ体育系と文化系じゃ差は歴然っすね」
 正直自分でも今のは微妙だったが、うまく流されてくれたらしい。
「……でも、やっぱり意外かなぁ」
「ん、何が?」
「あ、いや、な、なんでもないっす」
 彼のそれは自分に言い聞かせる類のものらしかったが、運悪くわたしの耳に入ってしまったので多少慌てていた。
「先輩って、変わり者とか、よく言われません?」
「あ、なんでわかったの? 失礼しちゃうよね。どこにでもいる普通の文芸部部長だってのにさ」
 その時は「意外」の意味がわからなかったが、今になってやっとわかった気がする。
 笑ってはいるものの、やはり無意識で五体満足者に対しての羨望があったのだろう。小指だけの欠損だが、その『だけ』がそのままなのか、『なんで小指だけ』なのかは本人のみぞ知る。厳しいようだが、それは彼自身の問題であり、こっちにとっては知ったこっちゃない。羨むなら羨め、ただし何も変わらないぞ、と。小倉洋平もそれが理解できているから乗り越えようと普通に振舞う。ひねた態度をとらないだけ、同じ年代の男子よりも大人なのだ。
 無理はしないように、と言ったところで、無理ではないことに気付く。だからその言葉は心の中で堰き止められた。


 大学受験も終わり、卒業式を一週間前に控えたある三月の寒い日。なんとはなしに寄った文芸部の部室には大勢の部員が犇いていて、小倉洋平は隅の席で呆けていた。わたしが入ると部員たちがばらばらに、しかし一名を除いて全員が挨拶をしてくれた。まあ、その一名は小倉洋平であるのだが。
「や、小倉洋平君。精進してる?」
「……あ、ああ、どうもっす」
「なんか考え事? マメな君にしては珍しいからの推理だけどね」
「いやだなあ、俺だって色々と考えますよ。色々と」
 そしてまた、考え事。
 ふぅん。
 返せる反応はそれぐらいしかない。
 彼のこういう反応は初めて見る。成績が悪かった時は深く考えず笑っていて、足首を捻った時には泣き真似だった。考えるとおおよそ五つぐらいの反応を知っているが、これは新種だ。
「ねえ、先輩。今までどれくらいの作品、仕上げました?」
 そしていくばくかの沈黙後、そんな質問が飛んできた。
「んー、そうだねぇ……。書いた作品をすべてカウントするなら、三十、四十くらいかな」
「あー、やっぱ多いっすね。そっかー……」
 伏目がちになる小倉洋平。沈んでいるのか、考えているのかはわからない。
「それがどうかした?」
 とりあえず訊いてみる。
「……今になって言うのも何なんですが」
「うん」
 深呼吸の音が空に穴を開けた。
「ひとつ作品を書こうと思ってます」
「うん、いいんじゃないかな。ジャンルとか内容とか、決まってる?」
「はい。構想だけは、部に入ってからすぐに出来ました。書くかどうかは今日まで時間がかかったんですけど、やっと決心がつきました」
「大袈裟だねぇ。……もしくは、大袈裟なこと?」
「自分にとっては、無意識的に」
 ここまで聞くと、嫌でも内容に見当が付く。彼もわたしの様子を察して、静かに頷いた。
「それにしても意外だね。てっきりもう忘却の彼方なんだと思ったけど」
 普段の様子から見れば、誰しもそう思うに違いない。しかしやはり、そう簡単に吹っ切れるほど、彼の中では小さな漣ではなかったのだ。
 以前、彼に「変わり者じゃないか」と訊ねられた事がある。当時は軽く聞き流して「そんなことはねえ」と突っ撥ねたが、わたしはもしかしたら変わり者という人種にカテゴライズされているかもしれない。
 小倉洋平が吐露した心情を聞けば「ああ、この人は苦しんでたんだな」と同情が沸くものだろうし、同情が一欠片も沸かないとなると、いよいよ危機感が強まる。「普通」を客観的に分析できるあたりも、それを裏付けてしまっている。
 が、それはわたし自身の問題に過ぎない。今、ここで持ち出すべきではないゆえ、心に秘めておこう。
「俺も忘れてると思ってましたけどね。『思ってる』時点で忘れてないことを逆に証明しちゃってますが」
「まあ、深く考えるのはやめておこうよ。書けるうちに書いておいた方が、作品にも君にもいいと思うからさ」
 ああ、それもそうですね。ありがとうございます。出来るだけやってみますよ。
 うん、まあそれなりにね。あ、折角だから、タイトルと書き出し、教えてくれる?
 いいですよ。『ザ・ロケットフィンガーNO.5』。書き出しは『僕の小指は、希望と、ほんのちょっとの後悔で出来ています』。締めは『僕の小指ですが、今はただの小指です』。
 そっか、ラストまで決めてるんだ。小指だからNO.5ね。じゃあ、すぐ書き上がるよね。卒業式後に渡せば感動が十倍は高まるよ。
 善処はします。善処ですけどね。
 それが彼と最後に交わした言葉。その日から卒業式を終えるまで、部室に寄らなくなり、結局それきりになった。


「部で年に一度、文学賞に出す作品を決めるじゃないですか。それに選ばれたんですよ。ロケフィン」
「はー、それはすごいね」
 本音である。あの映え抜きから選ばれたのだから、さぞかし輝く作品なのだろう。
「あ、そうだ。今思い出したんですけど。先輩、読みたくないですか?」
「あー、そうだね、読みたいね。可愛い後輩のデビュー作になるかもしれないし」
「実は、常備してるんです。何回読んでも飽きないなんて、初めてですからね」
 そう言われると、期待は否応なしに高まると言うものだ。
 ―――でも。
「折角だけど、今は遠慮しておくよ」
「え?」
 まさにハトマメな顔だ。流れからして当然、「見る」だと思ったのだろうが、わたしには今見るわけにはいかない理由があるのを、今思いついた。
「いつだっけ? 文学賞」
「あ、そ、そうですね。えーっと、今から一ヵ月後で、応募はもう完了してます」
「なら、わたしのところにもいずれ届くよ。ロケフィン」
「……ああ! 先輩、そう言えば」
「うん、そういうこと。忘れてるなんて薄情な後輩だなぁ。まあ、こっちでも先輩として、がつんとね」
 ロマンもへったくれもない、いかにもこじつけなこの渡し方はどうかと思う。マメな彼のことだから、自分の作品を読むであろう審査員のことも知っているに違いない。
 それについて文句を言ったとして、きっと『今も卒業式後に変わりはないですよね?』と、逆に訊かれるに違いない。
 しかしただ今は、原稿用紙上での再会が待ち遠しい。