『闇を呼んだのはお前だ。
後悔するなよ――YA・joker』





YA・joker
番外編

『邂逅の夜』



















「今夜もやられたそうだ」


 低い男性の声が、その空間内に無機質に響いた。

 音も光も……その全てが吸い込まれてしまうような、隔てのない暗闇……
 ……それが、幾重にも折り重なって広がっていた。

 そこには、真っ暗な部屋に、円卓とでも呼ぶべきか――中央に机だけが設置されている。
 そしてその机のまわりを囲む、数人の男性達。年齢様々だが、皆眉をひそめているように思われた。

 しばらくの静寂の後。

 空間の中央に鎮座する細長いテーブルの両側に座る、30代ほどの男が、ポツリと言葉を漏らす。


「やはり捕まえることはかなわなかったか…」
「後処理はどうしている」
「既にまわしておいた。抜かりは無い」
「しかし」
「そうだ。野放しにするわけにはいかん」


 一番手前にいる白髪の老人が、顔の前に両手で橋をつくり、静かに呟く。


「奴が何者かは知らんが、目的はハッキリしている。…忌々しい、アイツと同じ目的がな」
「まさか、『彼女』だというのか」
「あり得ん。もしそうならば――このようなまどろっこしいマネはしていないハズだ」
「そうとも。『彼女』だとするならば、既に『リズ』の二の舞いだよ。…いや、三度目、か」


 別の男が机に肘をつき、体を前に乗り出してきた。そのままの体勢で口を開く。


「いずれにしても、危険因子には変わるまい。小さなものだが――芽は摘まねばならん」
「そうとも。奴は危険だ…早々に手を打たねば」
「我々の汚点に繋がる」
「しかしどうする? ナンバーどもはまだ完成の兆しを見せていない」
「未完成のまま放つのは、我々にも危害が及びかねん」
「――ならば」


 先程の老人が、威圧のある声で言葉を紡いだ。その声に、今まで騒いでいた一同が静かになる。





 しばらくの沈黙の後――
老人は表情も、仕草も変えることなく。告げた。





「彼らに任せるとしよう。我々の重要なサポンサーであり……政府との繋ぎである、彼らを」
「ということは、まさか」
「その通り。――『エージェント』をこちらに遣してもらう」


 男達は言葉を止めた。体の姿勢をとき、各々机から体を離す。


「次の夜こそが、奴の最後だ――」


 その言葉と同時に、パチンッと男性達はいっせいに闇に溶け込み、姿を消した。








































「それで、私が派遣されたわけですか」


 その部屋を一言でいうならば、異質の一言だった。
 異常なほど暗く、異常なほど陰険鬱々で、かつ異常なほど息苦しい。

 つまりは、自分に向かない空間ということなのだろう。
 彼はひとりそう納得し――目の前の男の言葉を待った。

 目の前の男は――まあ、自分もそうなのだが――この部屋に合わせたかのように、
 全身が黒で覆われている。漆黒のスーツに身を包み、頭髪までもが黒だ。

 ただ違う事といえば、その男の眼光に光っているものが漆黒ではなく深い蒼だということくらいか。
 そのディープ・ブルーこそが、この男を一番よく表している象徴なのだが……

 少なくとも、今の彼には関係ないことだった。もとより、そんなことは彼が一番熟知している。


「そうだ。君ならば難しい任務でもないだろう」
「まあ、そうですが」


 彼はサングラスに指先をやり、多少上に押し上げた。

 もう片方の手には、写真が握られている。
 それをサングラス越しに見つめながら、小さく肩を竦めた。


「私を使うようなものですかね。私としてはまだ当面の潜伏任務があるのですが」
「急を要することだよ。相手は、最大の危険因子だ。それは彼女に聞けばわかるだろう」
「聞きましたが」


 彼は写真の中の人物を――なんてことはない、日常の一部だ――を見つめ、ふぅっと息をはく。


「とてもそうとは思えませんけどね。この人物が、本当に我々が恐るるに足る人物なんですか?」
「無論だ。でなければ、『エージェント』など使うわけがなかろう。特に、君を」


 イスに深く座り込み、淡々と語る目の前の男に――、ようやく顔を上げて彼は自分の上司を見た。
 写真を胸ポケットにしまい、静かに息を吐く。


「まあ、任務であれば断わる理由はありませんが。もう一つの方はどうするんです?」
「適当にあしらっておけばいい。それこそ、君ならば軽いことだろう」
「了解。適当にやっておきます」


 おどけたように肩をすかして、彼はくるりと踵を返した。

 男に背をむけ、そのまま部屋を出て行こうとする。扉に手をかけ――そこでふと彼は動きを止めた。
 首だけを振り向かせ、苦笑したような顔でけろりと上司に尋ねる。


「標的、何て言う名前でしたっけ?」


 男は――もう慣れているのか、それとも単に呆れて声がでないのか――小さく嘆息した後、その名を告げた。




















「――YA・jokerだ」

























 そして、物語の幕は開く。


































 夕闇はひとりでに音もなく訪れる。
 それは絶え間ない永久機関。
 欠かすことのない、夜と朝の交替。

 夜が夜になるために太陽を犠牲にするというのなら。
 自分は、何を犠牲に彼女と入れ替わっているのだろうか。


「…何を感傷に浸っている? 珍しいじゃないか」


 そんな心の声に、彼女は表情を変えず、目を伏せて――それでも口は多少の微笑を漏らし、呟く。

 彼女の周りには、誰もいない。
 そして何もない。
 ただ光のない闇が広がっているだけだ。

 しかしその呟きは、決して独り言なのではない。

 "応える者"が、いるからである。


『うん…ちょっとね。考え事をしてたんだ』


 それは彼女の内なる声。――背中合わせとなる、表裏の存在。
 彼女は「ほう」と小さく呟き、多少興味深そうに訊ねてくる。


「なにをだ?」
『今までのこと。貴方のこと。私のこと。そして――』
「この先の未来、か」
『うん』


 頷きと共に、彼女は静かに息を吐いた。軽く空を仰ぎ、目を僅かに細める。


「それは私にも分からない。…正直言えば、どうだっていいんだ。私達が成すべきことは、今にあるからね」
『今?』
「そうさ。目先の未来なんて……この空と同じく、闇なんだよ。誰にも分からない。だからこそ、人はもがく」
『私達がそうであるように?』
「ああ。私達は必死に抵抗している。この世界の摂理から。奴らから。そして、彼女の死から」
『………』
「…長話となったな。今夜はもう行こうか?」
『……そうだね』


 内なる存在の声を聞いて、彼女は自然に、トンっと踵を鳴らした。
 瞬間、それが自然であるかのようにふわっと彼女の身体が浮き――空を舞う。

 空を舞ったのではない。ただ、跳んだだけだ。
 そして彼女は、『ただ跳んだだけ』で、一気の屋根の上へと昇りあがった。

 今宵は月がある。
 刃のような鋭い三日月である。

 月の光は、これからの彼女の活動には少々目障りなものだろうが――対して支障はない。
 月光の微かな光が、街灯すらない夜の街をわずかに照らし、彼女の姿も薄く闇から浮き上がらせる。
 黒いマントとフードをすっぽりと被り、全身を覆った彼女の姿を。


「さあ、今夜も行こうか――夜子」
『うん』


 彼女との会話を皮切りに――更なる跳躍で、屋根を飛び移っていく。

 人間の枠を超えた身体能力。
 そして全身を黒で包んだその姿。
 もし彼女を見る者がいるならば、口をそろえて真っ先に彼女の名前を告げるだろう。





 ――YA・joker、と。





「今夜の標的は、美術展にでかでかと公表されているとある宝石さ」
『宝石?』


 夜の闇を駆けるままに、YAは夜子に話し掛けた。
 どうやら今夜の標的のことらしい。


「ああ。別にそのシロモノ自体は対したものじゃない。
賞賛を送られるほどの輝きと大きさを持ったものであるがね。
私達にはどうでもいいことさ。関係するのは、ソイツが偽物であることだよ」
『偽物……』
「精巧で、目利きすらも騙せるほどのものか? 実はそうじゃない。
ソイツは大変稀少でね。数は世界にほとんどないんだ。
そしてその全てを、彼らが所有している。無論非合法にね。
もう分かるだろう? 世界に公表している、採点の基準が既にもうニセモノなのさ。
あの宝石を創った人間は、あれしか種類を生み出さなかったらしいからね。
だから気付かない。飾られているアレが偽物で、本物は裏で売買されていることをね」
『奴らがやりそうなことね…。でも、それじゃあ偽物を奪っただけじゃどうにもならないんじゃない?』
「いや、私――つまり、YA・jokerが奪ったとなれば、彼らは焦る。
今までの行動から察すれば、私がそれを偽物であると気付いている、ということは奴らも分かるだろう。
彼らは私の正体が何であるかを知らない。もし、私がどこか巨大な組織の飼い犬だとでもするならば――
バレないとは言い切れない。裏の世界にはね、クロノスを上回るものなんてゴマンとあるんだよ」
『なるほどね』


 ダンッ!

 屋根を跳ぶ音が、無音の世界に響いた。




















 そして、程なくして目的の場所に辿り着く。

 自分達は怪盗を気取っているわけではないが――
 やはりこの街で有名なため、予告など出さずとも警戒は厳重にされているようだった。
 上から見下ろしてでも分かる、無数の人ごみ。
 恐らく彼らがまわしたものだろうが――


「それが無駄なことは百も承知だろうに」


 ふん、っと彼女は小さく鼻で笑い――タンッと迷いもせず、軽やかにその建物へと踏み込んだ。


































「ぐわっ!」


 叫び声をあげて、そこを見張っていた警備員が倒れる。


「悪いね。まあ軽い脳震盪さ」


 軽く声をかけてから、タタッとなるたけ音をださずYAは廊下を駆け出した。


『宝石がある場所は分かっているの?』
「無論だよ。――だがおかしいな」
『え? なにが?』


 キョトンと夜子が訊ねてくるのを、YAは表情を変えず、淡々と答える。


「外の警備に反して中があまりにお粗末すぎる。
3階から入ったが、見張りは先程の彼しか見ていない…。どういうことだ?」
『何かの罠……?』
「まあ、そう考えるのが妥当だろうね」
『今日はきりあげる?』
「冗談」


 ふふ、っと小さく微笑して、YAはタンっと跳ぶ。


「宝石は1階の大広場にある。
だがこの先の扉を抜ければ、それを上からでも見下ろせるテラスになっているハズだ」


 言葉とともに、YAは鍵のかかった扉をなんなくあけ、その扉を開いた。



































 部屋には光が付いていなかった。
 だが、大広場の2階から上は壁がすべてガラスになっているため、空の闇と三日月が中を照らす。

 YAは、テラスのようになっているその通路の手すりに手をかけてから――眉をよせた。

 確かに、大広場の中央にはショウウインドウがあって、そこに月の光を反射して輝くものが入っている。
 恐らくあれが標的であるのは間違いないだろう。

 だが――
 そのショウウインドウの前に――


『……誰かいるね』


 男が立っていた。
 警備員の服装ではない。普通のスーツとネクタイをきっちりと着込んだ若い男である。
 数は複数ではない。
 むしろ、一人。


『どういうことだろう…。宝石のある場所の警備にたった一人、なんて』


 夜子の心の声に、YAは同意の気持ちを顔で表現した。
 眉をよせ、じっと相手を見つめている。

 その視線に気付いたのか――男は、ゆっくりと顔をこちらに向けてきた。
 月の光が彼を照らす。が、彼からはこちらの姿は暗がりであまり見えないはずだ。
 男はこの闇の中でサングラスをかけているのだから、尚更だろう。

 彼は自分の姿を確認し――あえて隠れなかった――、無表情だった顔に変化を与えた。

 くすっと笑い、軽やかに手を上げて、


「やあ」


 ――などと、挨拶してきた。

 ますますYAは、その整った眉をひきよせた。
 夜子も困惑の心情を現している。

 だがそんなことはまったく気にせず、男は軽い調子で話し掛けてくる。


「いやあ、今夜来なかったらどうしようかと思ってたよ。
こんなところで一人夜中立ってるのって、凄い馬鹿みたいじゃないか。来てくれて少し安心した」
「…………」


 何を…言っているのだろうか、この男は。

 元々広いホールだ、一階からの声でも響いてよく聞こえてくる――のだが、言ってる意味が分からない。

 自分をおちょくっているのだろうか。
 実際、彼はへらへらと笑って、不法侵入者に気楽に話し掛けている。


「君はアレだろ? ええっとなんだっけ……そうそう、ワイエージョーカー。
悪いね、この街に来たのは実に最近でね。あまり君の事は知らないんだよ」


 世間話でもするような口調で男は延々と休みなく喋り続ける。

 その言葉が誰に向けられているかは明白である。が、YAは眉をひそめたまま男を凝視するだけだった。
 それすらも気にしないのか、さらに男は言葉を続ける。


「で、さ。君は何でも怪盗で、色々なものを盗んでいるらしいね。
その接点はまるで見つからず、警察も対処の仕様がない鮮やかさ……うーん、漫画みたいだねえ」
「…………何が言いたい?」


 YAはしばらく躊躇して――声を上げることにした。
 本来ならこれは自殺行為だが、どうにもそうしない限り言葉が終わらないような気がしたのだ。
 それに気をよくしたのか、男はにぃっと口元に笑みを浮かべる。


「あ、やっと答えてくれたね。
いやあ、ドスの聞いた男の声かと思えば――どっちか分からない微妙な声だね。
機械ででも変えてるのかな」
「自前だ。で、何が言いたいんだ。私の目的は分かっているのだろう。なら、君は何だ?」


 なるべく声を響かせないように小声でひそめて言葉を紡ぐ。
 それでも男に聞こえているのが不思議だが――男は肩をすくめて、答えた。


「私が何か――か。それは決まってるじゃないか。
君は怪盗。そしてそのブツの前にいるんだから、それを阻止する人間だよ、私は」


 やはり軽い調子で言うが――そこには、先程のような柔らかさがない。

 YAはようやく眉を戻した。
 元の無表情に戻り、ふうっと息をはく。


「だろうな。それでは――始めようか。私も君と話している時間はない」
「そうかい? それじゃあ……」


 言葉を言い終えるまえに、男は両手をズボンのポケットに突っ込んだ。
 それから、けろっとした顔で言う。


「降りてきてくれよ。まさかそこから盗るわけじゃないんだろ?」
「…………」


 YAは少々肩すかしをくらったが、すぐに呼吸を整え――タンっと軽やかに跳んだ。


「わお」


 それを見て、男が驚きの声――だろう、多分――をあげる。


『なんか変な人だね…っていうか、武器の類も持ってない。本当に警備の人なの?』


 夜子の言葉に同感しつつも――YAはふうっと息をひそめた。

 相手がアレならば、どうとでもなるだろう。一撃で終わらせてやる。
 そう考え、落下の速度が増していくなか、静かに拳を構える。

 と――







 男は、その場から消えていた。







「――っ!?」


 慌ててYAは神経を研ぎ澄ませる。

 そして――

 ブンッ

 頬をかすめる蹴りを空中で交わし、YAはぐんっと落下の速度を速めた。
 男が元いた場所に立ち、すかさずダンッ!と横に跳ぶ。


「凄い反射神経。まさか空中で避けるとはね」


 そして、男もまたポケットに両手を突っ込んだまま、タンッと着地する。
 ショウウインドウを挟んで対峙する二人。その距離は半径50メートルほどだろうか。


『今のは……まさか、リズ・ナンバー?』
(――いや)


 別に彼女からすれば驚くことではない。

 地面から10メートルほどの高さだった。
 三角蹴りの要領でいけば、あの高さまで跳び蹴りをかますことなど軽いことなのだから。


(そうとも。脅威なものじゃない…確かに平均の能力より上だろうが、
あんなものは訓練すれば誰にでも出来るものだ。私の敵ではないさ)


 夜子の言葉を否定し、安心させてやってから――YAは余裕の笑みを見せた。

 やはり睨んだとおりだ。
 奴らが私を捕らえるために何らかの刺客を送るのは容易に想像できていた。
 だがナンバー達は完成していない。だから別のシロモノに頼る必要があった。
 恐らくあの男は、組織に雇われた人間――だが、人体精製は受けていない、生粋の兵士だ。
 それぐらいで自分を捕まえようとは――笑止。


「うーん。凄い身体能力だ。盗賊とばかり思っていたけど、人間の成せる技じゃないね」


 男は相変わらずのヘラヘラ顔で、こちらを賞賛しているようだが。


『……人間の成せる技じゃない、か…』

 僅かに彼女の心が曇っているようだが――今は慰めている場合ではない。

 さっさとこの男を倒して、ここを出るか。
 そう考え、YAはすっと腰をおとした。いつでも動ける体勢に整える。

 それを見て、男は――ふぅっと息を吐いた。
 やれやれと残念そうに肩を竦める。


「そんなに急ぐのかい? もう少し私と遊んではくれないのかな」
「……言ったはずだ。君といつまでも遊んでいる暇はない」
「そうか」


 短く告げると、男は先程まで突っ込んでいたポケットから両手を引き抜いた。


「………」


 知らず、構えている拳をぎゅっと握るYA。
 だが男は静かに手を顔の方にやり――そっとサングラスを外した。


『……なにを?』


 夜子の疑問も最もである。

 彼はサングラスをスーツの胸ポケットにいれてから、こちらのほうに視線をやった。
 夜目に慣れてるYAは、わずかな月明かりで彼の瞳をそっと覗き込む。
 なんてことはない、純和風の黒い瞳だ。
 男はその視線をこちらに向けたまま――静かに、呟いた。


「闇を呼んだのはお前だ。後悔するなよ――YA・joker」










 瞬間。










「――っ!!」


 身体全身から吹き上がる最悪の悪寒に、YAは無意識のうちにダンッ!!と大きく後退していた。


「なっ……っ!?」


 思わず驚きの声を隠せない。

 夜が――闇が、揺れていた。
 自分の身体をかつてない以上の冷ややかな感情が走る。
 脳を刺激し、全ての細胞が活発化する。

 ニゲロ。

 ニゲロ。

 ニゲロ。

 脳信号が送る受信を、顔を歪めて必死に対抗する。
 そして、ふと男の瞳を見て――更に、心臓が鳴った。


『な、なんなのあれ……!?』


 男の瞳は、先程のソレではなかった。

 瞳孔が縦に開いているのだ。
 獣のように――猫の目を覗き込んだときのように、男の瞳孔はめりっと縦に裂けていた。
 そして、瞳がみるみるうちに闇色に染まっていく。
 水晶体が黒く塗りつぶされ、どろりとした闇が目を支配する。
 やがて瞳は、黒い闇と、縦に裂けた瞳孔だけを残す。

――明らかに、人間のソレではなかった。

 それだけじゃない。
 先程とは違う、徹底的な威圧感……嘘のように、世界が震えている。


「……さて、始めようかYA・joker」


 ゆっくりと、男の言葉が耳に響いてくる。
 先程とはまったく違う、威圧と存在感を兼ね備えた声。


「ぐっ…!」


 だがここで退くわけにはいかない。
 これらの行為全ては、自分自身の証明なのだ。ここで引き下がるわけにはいかない。

 YAは、ダンっ!と踏み込んだ。
 初速からいきなり最高速に達する足の運びで、男との距離をつめ――


「――ぐはぁっ!」


 ――衝撃は、まず腹部にきた。
 知覚する前に、もう一度男が同じ場所に蹴りを放ち、更に背中にも肘をいれる。
 両側からの信じられないような痛みが胃を潰した。

 男は自分が動く前に既に距離を詰めていたのだ。
 見えなかったなんてものじゃない――初めから間合いなどなかったような感覚だった。

 更に男は攻撃を休みない。
 一時たんっと後ろに離れ――爆発のような踏み込みの音とともに、まっすぐにこちらに蹴りを放ってきた。


「ぐぅっ!!」


 更にインパクトの瞬間に膝を曲げ、バネの力を追加させてから――衝撃を倍加させる。

 ダンッ!!

 なす術もなく、壁に叩きつけられた。
 その衝撃の鋭さにバウンドして壁から離れたところを、隙間なく上空に蹴り上げられる。


『……っ! 駄目、ここは引き上げよう!』


 夜子の声が――意識を失いかけていたYAを起こす。


「ぐぅ…!」


 上空に蹴り上げられたのは好都合。
 最後の力で2階のテラスの手すりを持ち、テラスに乗り込んでから、

 ガシャァン!!

 派手な音をたてて、彼女は窓ガラスを突き破った。






























「ほう。まだあれだけ動けたか……やはり人の力とは思えんな」


 それを感心したように見つめてから――男は呼吸ひとつ乱さず、くるっと踵を返した。

 上空を仰げば、そこには三日月が浮かんでいる。
 それを見上げながら――男はにやっと口元を歪めた。


『……追わなくてよろしいんですの?』
「追うさ。だが今から追ったらすぐに追いつくだろう? それじゃあおもしろくない」


 響く声に、男は愉快そうに答えた。
 その言葉を聞いて、声の主は呆れたようだったが。


「どう思う? やはりあれは、人体精製のものか?」
『いえ…。確かに人の枠を超える能力でしょうけど。
あれでは彼らの開発するナンバー達にも遠く及びませんわ。無論のことわたくし達にもね』
「だとすると、昔の失敗作か…まあその類だろうな。飼い犬に手をかまれるとは、彼ららしいものだが」


 そう言って、くくくっ、と喉のあたりで笑い声をあげる。


『さて、どうするんですの? わたくしは知りませんわよ、ここで逃げられても』
「追うって。……まあ、もうそろそろか。鬼ごっこも、ま、極めれば楽しいかな」

 あくまで楽観的に――だかその闇の眼はとても冷たく――呟き、男は静かに踵を鳴らした。



































 影は、闇を駆けていた。
 塀を飛び越え、屋根を走り、空を舞う。
 その身軽さは、人とは思えないほどだった。
 ほとんど肉眼で捕らえることのできないスピードで走るその影は、しかし呼吸を大きく乱していた。


「はぁ…はぁ…はぁ…」


 YAはくそ、っと毒づきながらも、その足を緩めない。
 肉体の限界はもうじきだった。特に集中に受けた腹部への攻撃が走るたびに揺れて激痛が走る。


『やっぱり、リズ・ナンバー……なのかな。あれだけの身体能力だなんて』
「……違う…。あれはまだ完成に至っていないはずだ。あの男は……クロノスには、関係ない」


 夜子の不安そうな声を、YAは必死の形相で否定した。


「だが雇われた人間にせよ、恐らく任務は絶対だろう……もう追ってきているはず、だ」
『そんな……貴方のその身体で、勝てるの?』
「逃げるしか、ないだろうな…。
基準値が違いすぎる。……何より、あの眼……根本的に人ではないのかもしれない」
『どういうこと?』
「君は信じられないかもしれないがね……この世界には、君が見たこともないような世界がある。
人間でない種族も、あながち御伽噺の世界ではない、ということさ……私も知識でしか知らないが」


 ぐぅ、っとうめき声と共に腹を押さえて、YAは悶絶しそうになる。

 だがその足は止められない。
 背後からの死の足音が、徐々に近づいているのを本能で知っているからだ。


「いや……」


 自分の考えを、YAは苦々しく否定する。


「足音は……既に私を飛び越えているようだ、な」
『えっ……?』


 夜子の疑問の言葉を、YAは小さな舌打ちで返した。
 顔をあげて、夜の前方を見上げる。

 ――と。

 前方に、自分ではない第三者がいた。こんな真夜中の夜更けに、それも屋根の上に。
 まさか夜風にあたっている通りすがりの通行人とは思えない。
 その人物は、遥か前方からまっすぐとこちらを見据えているのだから。
 両手をズボンのポケットに突っ込み、ただ一点――こちらを見つめている。

 見間違えるハズもない――先程の男だ。


『そ、そんな……!? どうして私達を先回りしているの!?』
「さぁね……だが、これで前に逃げるわけには――いかないな!!」


 最後の力を両足にまわし――YAは大きく横に跳んだ。
 それが無駄な行為だと知りつつも、本能のようなものだった。

 だが――


「それは少々危険な賭けじゃないかね、YA・joker」


 声は、跳んだ後の背後から聞こえた。
 すぐさま彼女は地面に足をつき――渾身の力で踏み込む。

 ドゥン!!

 刹那、屋根上が爆発するような音をたてると同時に、彼女は前方の上空に大きく飛翔した。
 そのまま、男を振り切るかのように、屋根を飛び超え、駆けていく。


「ほう。よくもまああの身体であれだけ動けるものだ。賞賛に値するね」


 月に照らされる影を見上げて、飄々と呟きながら――男はひゅるん、っと手を振った。


「――賞賛ついでに、褒美もあげないとな。受け取るがいい……YA・joker」


 そう呟くとともに、たんっと軽く男は跳んだ。

 その足音は、確かに軽かった。
 が、男の跳躍はYAの大きく上をいっていた。まるで重力を無視するかのように、軽やかに飛翔する。

 そして、遥かな上空で、屋根を走っている影を、男の縦に避けた瞳孔が捉えた。
 ぎゅるん、っと相手の動きを追う。


「闇よ、集うがいい」


 男の言葉は、静かな夜に、異常なほど響く。

 その後、不気味なほどに闇が――蠢きだした。
 彼の周囲の夜の景色が揺れ動き、まるで黒い水のように――彼の右足を包んでいく。
 きゅるるる……獣のような動きで闇の水は彼の右足先端を包み込み、槍のように尖らせて行く。

 やがて右足が黒い光の槍と完全に化した後、男は空中でそっと右足を走る影へと向けた。

 ――言うまでもないが、彼は先程から闇に浮いている。


「受けるがいい、YA・joker……我が槍を」


 きゅるるるるるるる……

 右足が鋭さを増していく――と同時に、彼の下半身全てが、一様に闇に包み込まれる。




















「カオス・インフェルノ」




















 静かに呟いた男の言葉が――
 ――キィ・ワードだった。


 ブォン!
 シュゥゥゥゥゥゥゥゥゥツ!!


 黒き光はミサイルのように、真っ直ぐにYAへと解き放たれた。
 その速度は――尋常なものではない。
 ただ標的を貫くためだけに、あらゆる物理障害を無視して彼女の元へと射抜いた。



































「――!?」


 YAが、全身にかかる悪寒に気付き、痛みをこらえて空を見上げた時には――
 既に、目の前に闇はいた。

 ドォォォォォォォォォォォンッ!!

 派手な音。
 粉塵の煙が、コンクリートのビルを覆う。


「――」


 ボチャァン!

 それに一瞬遅れて響く水の弾ける音を、男は静かに追った。
 見れば、ちょうどこの廃ビルの向こう側は川だったらしく……夜の闇に染まった水が波紋を立てている。

 やがて土煙が脱した時――えぐれたクレーターの中心に立つ男以外は、何も見当たらなかった。
 しばらく周囲を見渡し、男はタンッと軽くクレーターから抜け出た。
 そして移動し、川を見下ろせる位置まで辿り着く。


『やりましたの?』
「いや、逃げられたな。死んでいない」


 ポケットに手を突っ込み、片足をビルの端に乗せてから川を見下ろし、男は静かに呟く。
 が、声の女性はそれが気に入らなかったらしく、彼の頭の中で憤慨してきた。


『当たり前ですわ。大体、どういうつもりですの!? カオス・インフェルノをこんな場所で放つなんて! 
後処理のわたくしがどれだけ大変だと思ってますの!』
「悪いっていつも謝ってんだろ。それに、ありゃカオス・インフェルノじゃない。能力の5%も出してねえよ」
『それでもですわよ! あんな派手な技を打つなんて、それではわざと逃がしたのも同然――』


 途中まで言ってから、げ、っと女性の声は呟いた。何かに気付いたらしい。
 男はただ、川を見下ろしてニヤニヤ微笑んでいるだけである。


『ちょ、あなたまさか――!?』
「逃げられたんだから仕方ないだろ。次の機会に楽しみを残すさ」
『あなたねえ……。
もう少し、仕事をキチンとこなして欲しいですわっ。
大体、あれだけ痛めつけたんですもの。もう諦めるんじゃないかしら?』
「いや……そうはいかないんじゃないかな」
『どうしてですの?』


 不思議そうな女性の声に、ふふふっと男はポケットから片手を出した。
 そこには、チェーンのついたペンダントのようなものが握られている。


『なんですの? それ』
「落し物だよ、YA・jokerの。ま、願掛けなんじゃないか」


 チェーンの先には、飾りもなにもない、ただ鉄のプレートが付けられている。
 そしてその鉄のプレートにはただ一言、名前が彫られていた。


『……その名前…本名かしら?』
「さあね。別に私は相手の正体が何であるかなど興味はないし……依頼内容にも入っていない。
つまり報告する必要もない。……だが」


 ちゃら。
 指でチェーンを弄びながら、男は薄く微笑みを漏らす。


「コイツが私とYA・jokerを再び結びつける。
――メインディッシュは前菜の際には取らない。そうだろう? YA・joker」


 男はペンダントを、細い三日月に照らした。
 照らされた白銀のプレートは、光を反射して、その刻印されている名を闇に浮き上がらせる。











 そこにはただ、『識原椋』とだけ記されていた。























<To be continued...?>


















後書き:

親友であり弟子であり師匠にあたる御方、疾風さんに送るヘタレSSです。
基本的に私の投稿は三次創作もどきが多いのですが。今回が一番難しかったです。
なんせまだ完全に謎が解明されてないのに書いたもんだから、本編と随分食い違うことでしょう。
ごめんなさい生まれてきてごめんなさい(平謝り

さて、今回のは前編です。
後編となる『逢瀬の夜』とエピローグも、もう既に書き上げているのですが。
あまりのヘタレ気味のため、しかも先方さんのキャラ勝手に使ってることもあり。
好評だったら投稿させて頂きます。
いや、その他読者さんから「こんなんよるよるじゃないやい!」とか言われたら大変ですし。
というわけで、後編がお目にかかれるかどうかは分かりませんが。
感想とかくれると小躍りします。


それでは、疾風さん卒業オメデトウ記念でした〜。
コングラチュレーション!!





管理人より

親友であり弟子であり師匠であり信仰対象にあたる御方、とりすさんから燃えるSSを頂きました。
うう、すいません。設定がこじ付けぽくて、尚且つ難解。小生も考えるのにはオーバーヒートを数百回も繰り返し以下自粛。
取り敢えず、これを書いている時点で謎は解明されたので。半分くらい。
こちらこそ、光合成していてゴメンナサイ(ぇ?

後半を待ち望むのは、当たり前です。ああ、早く読みたい(催促)。
皆さん、感想を書きましょう。書いてください。じゃないと、後半とエピローグが読めません。
続きが気になるでしょ? でしょ? 気にして下さい。
それでも感想が来なかったなら、小生にだけメールで送るとか。勿論公開しない方向で(マテ
そうなりたくなかったら、皆さんで感想を書きましょう(それは脅迫です。)


無事に卒業できました。ちょっと後半の数学がやばげでしたが(笑)





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