空飛ぶアシカと降る蝉時雨【前編】

 

 

1.

 

 

 去年の夏、なにしてた?

 覚えてません。去年のことだし。

 

 

 今日もぼくは、空飛ぶアシカのことを考えている。

 別に、毎日考えているわけじゃない。昨日の今頃は、夕飯のおかずに思いをはせてたし、一昨日は月千円のこづかいで何が出来るかとかいかにも深遠な思索にふけっていた。

 でも、一昨昨日は考えてたと思う。たぶん。

 空を飛ぶアシカとは、すなわち万能の生き物だ。普段は海を泳いでいればいいし、陸にも上がれる。なにより空を飛べる。三つの世界を制しているのだ。

 どこにも行けるのだ。

 別に、家出願望とかがあるわけじゃない。不満なんてないんだ。朝には朝食を食べ、昼には昼食を食べ、夕方には夕食を食べる。理想的だ。それ以上を望むべくもない。

 だから、どこかに行きたいって思ってるわけじゃないんだ。

 それでもぼくは、どこにでもいける不思議な生き物について、たまに考える。八歳の子供の、八歳の子供なりの理由で。

 場所は関係ない。どこででも、考えてみたいときに考える。ぼくみたいな子供には、そのための時間が余ってる。世のかわいそうな大人に分けてあげたいくらいに。

 今日はたまたま、ほんとにたまたま。

 学校の校庭には、震災後の避難勧告が出されてしばらくしたころのように誰もいない。もう一番星の位置も分からなくなっていたし、なにより今日から夏休みだ。いつだって、子供にとって学校は監獄だ。

 高校生だって、そうそう代わり映えがあるわけもない。

 なんで小学生が高校の校庭の隅っこに突っ立ってるのかと聞かれたら、とりあえず逃げ出すしかない。いつだったか、お隣の河原崎さんのうちに入り込んだとき、不法侵入とかなんとかどやされた。

 それに、たいした理由があるわけじゃない。いちいち何かするのに理由をつけてたら、遊ぶ時間だって半分になる。

 ぼくは、藍色ににじんだ空を見上げていた。もしかすると、空飛ぶアシカが行き過ぎるかも。近くの家からは夕飯――たぶん肉じゃが――の匂いがただようし、電柱にはたまにぼけたフクロウがとまってるし、さっき夏休みなのに、女の子と男の子(といってもぼくより年上だけど)が校舎に入っていったし。

空飛ぶアシカがいたって、たいしておかしいことじゃない。

「や」

「こんにちは」

「……おどろかない?」

「ええ、まぁ」

「泣いたりとかしていい?」

「どうぞ」

「しくしく」

「声だけなんだ」

 ――たいしておかしいことじゃないんだ。近くの木の枝から人が生えてきても。

 もちろんものの例えとかいうやつで、実際には森の精ってわけじゃない。ただ、枝に足を引っ掛けてぶら下がってるだけ。一月くらい前に暗記させられた九九のように、分かればどうってこともない。

 女の人だった。

 夏の温い風に流されて、いい匂いがぼくの鼻をくすぐる。髪の匂いだと思う。さらっとくせもなく肩口まで、今は頭から下三十センチまで伸びてる、黒くて細い束。夜を細く切り刻んで集めたような。

「ねえ」

「なんです?」

「降りていい? のぼせちゃう」

「だめ、って言ったらどうするんです?」

「しくしく」

「勝手にすればいいじゃないですか」

「うん、そだね」

 すとっ、と。

 塀を飛び降りる猫のような身軽さと気軽さで、その女の人はぼくらと同じくただの人になった。

 年は――いくつなんだろう。中学生にも見えるし、そうと思ったら大人ともとれそう。どうにも判断がつかない。聞けばいいんだろうけど、女の年は聞くもんじゃないと母さんも、近所のおばさん(と言うと、必ず殴られる)も言っていた。

 それに、もっと聞くべきことがある。質問は、ひとつだけがいい。そんなぼくの、人生哲学。

「なにやってたんです?」

「えっとね、あのね」

 わたわたと、子供っぽくその女の人は腕を振る。その右手に、若くかつ青い好奇心の結晶。つまり、双眼鏡が握られてたりする。

「いまどきの高校生ってね、進んでるんだよ〜」

「……なにが」

「な、ナニがなんてっ!」

「……いや、だからなにが?」

 なんかもう小学生もすごい物知りなんだね時代は低年齢化なんだねでもそれってちょっとさみしいなお姉さんはだめだと思うなあたしの若いときはもっと純真だったんだけどそんなこと言うとおばさんみたいだねとにかく高校生で口はすごいと思あうあうあう――おねえさんは独り言に大忙しだ。

 なんか、帰りたくなった。

 けれど、どういうわけなのか、いつのまにか、なんとなく、これが世の中なのだと誰かに言われてるような気がするけど――つまり左腕をつかまれていたりする。動くに動けない。

 泣いたら負けなので、とりあえず雑草をむしりながら女の人がしゃべり飽きるのを待ってみる。もちろん、内容は全て左耳から入って右耳へ抜けて空に還る。女が喋りだしたらこうしろというのが教え、ではなく経験則だ。

 空はきれいだ。吐きそうなほど。

「ところで、ぼくを草むらに引きずり込もうとするのは止めてほしいんですが。ていうかなにする気だあんた」

「話してるうちに体が火照ってきちゃってぇ〜。あん♪」

「痴女がいますっ、みなさん痴女がいますーっ。たーすーけーてーおーかーさーれーるー」

「わわっ、冗談だよぅ」

 荒い鼻息を夜の空に撒き散らして、彼女は弁明した。

 なんか本気で帰りたくなってきた。いや、さっきが本気じゃないわけでもないけど。

「今日の夕餉は鯖の煮付けなんですぼくの好物なんですっ」

「帰らないでよぅ〜。三日くらい誰ともしゃべってないのよぅ〜」

「孤独を愛するナイスガイじゃないですかハードボイルドじゃないですかかっこいいじゃないですかっ」

「あたし女の子だよぅ」

「ええいうるさいなっ、はなせ妖怪!」

「うわぁん、蹴らないでよぅ。あうあうあう」

 夜の空に、ヤクザキックの素敵な破壊の調べと女の悲鳴とヒグラシの鳴き声が響く。

 とにかく世界は平和だった。

 

 

 ぼくが夢を見れば、たいていは例によって空飛ぶアシカなにがしが出てくる。ただ、あんまり夢を見るほうでもないので、週に一度くらい。

 ぼくはその、ぬるっとした背中に乗っかって空を飛ぶ。海を泳ぐこともあるけど、ほとんどが近くて大きな雲を眺める夢。涼やかな夏の空。雲の真下の陰に隠れて、アシカは空を泳ぐのだ。

 小さく見えれば、町なんて気にならない。雲は緩やかに流れる。それはなんとも穏やかな時間で。

 きまって、いつまでもそうしていたいと願う。

 叶ったことは、一度もない。

 ずぼっ。

 悲鳴を上げたかどうかは、分からない。目覚めと眠りを隔てる境界線、ワープする瞬間はいつだって記憶は滑り落ちる。

 我らが二年三組の担任である浅倉涼子教諭は、耳の穴に第二間接まで小指を突っ込むという極めて拙悪な方法でもって生徒を眠りから覚ますという猛者だ。ちなみに二十八歳独身。その時期になればどうしてもぬぐえない女の焦りというのは、世の省エネにいくらか貢献している冷ややかな顔からは読み取れない。

(……そんな粗暴だからオトコ日照りなんだよっ、PTAに訴えてやるこのクソアマッ)

「すいませんでした粗相を致しました授業中に眠りにつくなどという学徒にあるまじき劣悪な行為わたくし御浦流(みうらながれ)切なる反省を態度として表したく頭を下げさせていただきます」

 我ながら、見事に表と裏の顔を使い分けていると思う。小学二年生にして、ぼくは完璧な処世術を会得している。

 激しくむなしい。

 青春は、シャツに染み付いた寝汗の気持ち悪さであり、机に長いこと突っ伏していたことからくる背中の痛みであり、なんとなく頭を上げて浅倉涼子教諭の顔を直視するのは怖いという予感でもあった。

「ふん……オラ、昨日のテストだ。受け取れ」

 愛らしい生徒との円滑なコミュニケートを完全に放棄してるとしか思えない、愛想の片鱗も感じられない言葉。そんなのと同じくそっけない、おそらく日本人の性質が画一化する最大の原因である紙きれが机に落ちる音を聞く。

「相変わらず、狙ったように良くも悪くもないんだな」

「努力はしてます」

「ふーん」

 声の調子から、とりあえず上目遣いに顔をうかがう程度のことは許されたのだと察して、ちらちらと咎めるような色を浮かべた彼女の表情を見定める。どうもこの人の前に立つと、お前のしてることは何もかもお見通しだぞっ、と言われてる気になる。

「……まぁいい。もう寝るなよ」

 死んだふりは効いたのか効かなかったのか、どちらにしろ脅威はコツコツと靴音を響かせて教卓に戻っていった。ぼくはひとつため息をついて、テストの用紙を目にすることなく机にしまった。点数は見るまでもなく分かっている。良くも悪くもない。

 悪は去った。しかしいずれ、また第二、第三の悪がまったりしつこくやってくる。それが人生だ。

 昨日もぼくの人生にとっての害悪をひとり倒したが、それで幸せになれるほど甘くはないのだ。

 それでも負けてはいけないのだ。勝ち続けることが、唯一無二幸福の光へ続く鍵とか道とかになったりならなかったり。

 浅倉涼子教諭の放つ恐怖の催眠光線に耐えながら、頭を揺らしながら。

 ヒグラシの鳴き声は、真夏の暑さにあぶられる世界の悲鳴とも思えた。代弁者よ、きみはかくも美しい。

 

 

 十夜一月(とおやいつき)というのは、もちろんのこと本名で、もちろんのことそれはうそくさくて、もちろんのことぼくは芸名だろとからかったことがあり、もちろんのことそのネタで泣かしたことがある。

 母さんの腹をやかましく蹴りつけていた頃よりの仲であり、幼馴染というイメージに肉と皮を貼り付けたらおおよそこんな風だと思われる。

 じりじりと、夏の光が肌を焼き、とうもろこしを焼き、通信簿は焼かない。

 御浦流が御浦流でしかないように、田舎の商店街も田舎の商店街でしかない。個人経営の店舗は、都会の地獄を知らずに安穏を楽しんでるし、例え花屋が道にまく水が、背伸びしてるとっぽいお兄ちゃんにひっかかったとしても、気をつけろばばーうるさいねこのやろー、とそれっきりですんでしまう。

 ぼくは途中の屋台で半額の値引き交渉に成功した焼きもろこしをかじり、なんとはなしに手元の難解でもあり単純でもある、通信簿のコメントを覗いた。可もなく不可もなく。この調子でいきましょう。

 夏の光は、肌を焼き、もろこしを焼き、通信簿を焼かない。

「いつきは、成績どうだった?」

「ふつう」

 いつきの声はもとより小さいので、へばりつくように体力を奪う夏の日差しにバカヤロウと叫ぶ理由にはならない。なにをするにせよ、いつきはちっちゃい。背も前から三番目くらいだし、食は細いがご飯は飯粒ひとつ残さない。

 ペットショップのハムスターがひまわりの種をかじるのと似たり寄ったりに、もろこしは上から少しずつ細くなっている。

 きっと今ならアスファルトで目玉焼きが作れると、信じられる。うちに帰って靴下を脱いだら貧血をおこすのと同じ程度に。

「あっついなぁ」

「うん」

 後方七時の方向、ぼくから三十センチ程度にいつきの声があったり、唯一いつきがクラスで一番の長い髪があったり、体温の暑苦しさがあったり。夏になると、いつもこのまま。秋になれば暑苦しくなくなって、冬になればありがたくなる。

「まったくさ、高校生は昨日から夏休みだってのに、なんで小学生のぼくらが今日も学校なんだ。しかも昨日テストだし。納得いかないぞ」

「でも、もうなつやすみ」

「そりゃそうだけど」

 もろこしの繊維が歯の間にはさまった。気持ち悪い。

「宿題の自由課題、なんにする?」

「……なんにしよう」

 暗号でもなく、暗喩でもなく、いつきがそう言ったときは、ぼくになにをするか聞いているだけだった。

「ちなみにぼくは、量子力学とニュートン力学に見られる相違と、そこから推知される当時の歴史的背景についてのレポートを書くんだ」

「わたしもそれ、やる」

「絵日記にしよう、絵日記。七月十九日月曜日、ぼくらは商店街を歩きながら焼きもろこしを食ってます。歯にはさまらないコツでもどっかにないだろうか」

「うん、わたしもそれ、気になる。気持ちわるい」

 同士よ。

 どこにでもある、うだるような暑さの中を、ぼくらは歩く。

 本屋を横切れば、“北の国から”のテーマが流れる。

 それでも夏は、消えうせない。

「ねぇ、いつき」

 夏休み。

 子供はいつだって、開放感を熱い空気と一緒に胸いっぱい吸いこんでる。そこに冒険があるんだって、誰だって信じてる。

 ぼくはもう、信じられないけど。

「夏休みなにするか、もう決めた?」

 去年の夏のことは覚えてない。去年のことだし。

 けれど、知ってる。最初の十日で宿題を終わらせて、三日に一度くらいに友達と釣りに行って、いつきにいくらかのお菓子の作り方を教えて、夏祭りと花火大会はいつきと二人ででかける。おととしはそうだったはずで、去年もきっとそうだったはずで。

 今年もきっと、そうなるはずだ。

 分かりきってることを聞いてる自分が、ひどく滑稽だった。いつきはみうと一緒でいいと言うし、実際ぼくの後をついてくる。ぼくはもう、十年たっても覚えてられる夏があるなんて信じてない。

「……みうと、いっしょ」

 何かが変わるなんて、淡い期待でしかない。

 けれど、そのとき。

 鳴き続けるヒグラシの住処のように、ぼくは何かに気づいてない。そんな予感はしていた。

 

 

 御浦家においては、買い物というのは知力戦である。

 例えば、その日の晩御飯がカレーというとき。

 戦いはその日の朝より始まる。まず、新聞からスーパーの広告を全て残らず抜き取る。処分方法は、ワンパターンだと感づかれるので三日に一度は変えなければいけない。

 そして、爆発物を解体するような慎重さで母さんに交渉を持ちかける。にんじん、じゃがいも、にんにく、豚肉、ルー、たまねぎ。しめて1300円なり、と。このとき多すぎると詐欺罪で鉄拳制裁。少なすぎると自腹で食費を払わされる。気づかれないほどの微妙さで自分に利益をあげなければいけない。

 このさい、鬼のような狡猾さで値切られるので、意志は強く持つべし。

 今日の戦果は、928円だった。残虐超人の母さんにしては慈悲の心が見られた。きっと馬券を当てでもしたか、役満でもあがったのだろう。

 ともあれ、これなら439円ぼくの懐に入る。東の端っこと西の端っこのスーパーを行き来しないといけないけど。

 スーパー丸内は、生鮮食品にはまるっきり冷ややかだが、野菜は近隣のどのスーパーより安い。きっと店長は菜食主義だ。

 特に月曜日になると、ジャガイモ十二個入りが58円と、特攻隊員を思わせるような値下げをする。言いえて妙というやつで、その日に限り日本のとある街のとある一地域は五十数年前に立ち返る。

 ここは戦場だ、ガキが来ていい場所じゃねぇ。初めてここに来たとき、ほっぺたに大きな切り傷をこさえた店長は、自己陶酔きわまる笑みを浮かべてぼくにそういったのだった。奥さんいわく、頬の傷はネコにひっかかれたんだそうな。

 でも、確かに戦場に見えなくもない。

 ラグビーのスクラムを数十人規模でやってみれば、それに近い光景が再現できるかもしれない。芋が舞い、汗が舞い、おばさんが舞う。年をとっても、青春を感じる瞬間というのは確かにありそうだ。瘴気すら感じるそこを、青く美しいと言える度胸があったら。

「戦争は、むなしい」

 遠目に凄惨を極めた光景を見つつ。つぶやいてみるが、それもむなしい。

おばさんは、平和のありがたみを気分が悪くなるほど自覚させてくれる。大人とはかくあるべきなのであり有権者の怠慢が政治化の汚濁を助長させるとかなんたらかんたら。

 ふと。

 圧倒的な存在感で踊り狂うおばさんの群れのちょっと小脇に、その十分の一程度気配に欠ける人影がひとつ。気づけたのは、それが知り合いというほどでもないが知り合いたくもなかった人だからだ。

 そいつは、怪しさとはこう演出するのだという見本を示すように、身をかがめてなぜかこそこそと口で言いながらたまに四時の方向に敵影発見とか言いつつ十時のほうを向きつつタンクトップの腹が缶詰の形に膨らんで

「くぅぉるぅああああああああああああああああああああっ!!」

 ばひゅんっ。

 ぼくは確かに、その音を聞いた。

 巻き起こる嵐がいつぞやの痴女の髪の毛を派手に吹き上げる。菜食主義者の店長は、そいつのウェストに迫るほどぶっとい足を振り上げた姿勢で静止している。

 店長の乳首が、ぴくぴく蠢いてる。

「ひょわわわわわ」

 山で野生の熊と遭遇したときのみ発生するきらめく笑顔を浮かべて、名も無き痴女なにがしはしりもちをついたまま後ずさった。腹にためた缶詰を落としながら。

 店長は、触れただけで子供をはらませそうなほど体毛の濃い指の関節を鳴らして、口から愛国心に満ちた湯気を吐いた。

「この店に、“万引きは発見した際年齢問わず警察に通報します”の張り紙がない理由を、知ってるか?」

「なななな、なんででございましょうか、だんな」

 答える代わりに、だんなは巻き込むようなショートフックを素振りしてみせた。ばひゅん。もう一度ぼくは、その音を聞いた。

「二丁目の木下スーパーで万引きをするのなら、ありがとうを言おう。商売敵だしな」

「そんな無茶な」

 これはぼくだ。聞こえぬよう、こっそりと。

「ただし、うちの物を盗むのなら、等しく犯罪者だ」

 タンパク質のかたまりが、一回り膨れ上がったような気がした。もちろん彼は、菜食主義者だ。

「犯罪者は残らず俺のチョークでもっさりと絞め落としてくれるわぁぁぁぁっ!!」

 丸太ほどもある腕が振り上げられて、落ちた。もっさりと。

 あ、避けた。惜しい。

 丸内スーパーは戦場で、芋が舞い、汗が舞い、痴女が舞い、店長が舞い、おばさんが舞う。

 戦争は、むなしい。

 店長、そこはローだよ。違う違う、パンチは小さく細かく速くが基本だって。ああくそっ、そろそろ当てろよおっちゃん。

「……帰るか」

 確かに店長の言うとおりだった。ここはガキの来ていい場所じゃねぇ。

 じゃがいもは惜しいけど、仕方ない。五円無駄になるけど、二丁目の木下スーパーでも

 ――菜食主義者の呪いかどうかは知らないけれど。

 事実としてそれは、頭の中に木下スーパーの名前を出したときだった。

「うわーんっ、たすけてよぅーっ」

 悪魔とか不幸の化身とかは、一度取り付かれたら骨まで吸い尽くそうと狙ってくるというのを、ぼくは知っていた。

 嫌味なほど目ざとく、洗剤のコーナーに退避していたぼくを見つけると、そいつは一直線にこっちに向かって走ってくる。見るふりをしてた商品が手間なしブライトだからか、コアラのマーチとかならよかったのか。手間なしブライトに罪はないじゃないか。しつこい油汚れもスッキリ落ちますなんて建前、どの会社でも使ってるじゃないかっ。

「きさまも仲間かぁぁぁぁぁぁあっ! 必殺真空きりもみ十字踵落としっ、きょぇぇぇぇぇぇっ!!」

 怪鳥の雄たけびと、空を跳ねる筋肉。

 ぼくは無実だとかあんた子供を蹴り殺す気かとか、そんな平和に満ちた甘言が入り込む余地は無かった。ここは戦場なのだ。

 戦略的に撤退せよ。

ぼくの足は流れるように、というか流されるように店長に背を向けてダッシュしていた。

 頂上が少しばかり欠けてる缶詰の山を蹴倒して、菜食主義店長の足を止める。そのまま飛び込むように自動ドアをくぐって。

「乗ってっ」

 当たり前のように、真っ先にスーパーを脱出してて、自転車にまたがってて、地面にはコンクリのブロックが置いてあって、前輪の鍵はひしゃげてて、手招きして。

 夕暮れの空に、回し蹴りが飛行した。

「さぁ、出しなさい」

「あぅぅ……痛いようひどいよう」

 首を三十度ほど曲げてなおペダルをこぎだす根性を、誰かほめてあげればいいと思った。ぼくはほめない。

「コラ待てぇぇぇぇぇっ!!」

 菜食主義のおじさんは、しつこくも追いかけてくる。

けれど、ぼくらはもう走り出してる。

 八月十九日の丸内スーパーで、戦争が起こった。痴女が缶詰を万引きして、ぼくは社会の暴力に巻き込まれて、菜食主義店長の黄金の左足が踊った。

 おばさんたちは、自分たちの戦争にかまけきって、そんなことに気づいてない。今も丸内スーパーでは芋が舞い汗が舞いおばさんが舞う。

 きっと次の月曜日も、そうなんだろう。

 ぼくは後ろを振り返り、勝どきをあげた。

「ばーか、ばーか!」

 夕暮れの空はいつもカラスが鳴いていて、夏だけはそこに蝉時雨が入り込む余地をくれる。

 ママチャリの荷台はごとごと揺れて、尻が痛かった。

 

 

 蚊取り線香の匂い、二十年前のカラーテレビの匂い、扇風機についたほこりが風で流れる匂い、畳の草の匂い、中辛のカレーの匂い。

 つまり、田舎町の民家の匂いと言うやつ。

 電気屋で見るのより色が薄いカラーテレビに野球中継が映る。しつこくも巨人は未だに桑田を使っていたりする。

「おかわり〜」

 あ、打たれた。大きいな。

「おかわり〜」

 ツーベースじゃん。もう満塁だよ。ノーアウトなのに。

「お・か・わ・り〜っ」

 うるせぇ。

 スプーンを逆手に持って、皿をかちゃかちゃ叩き鳴らしているそいつ。奮闘の後として、五合炊いたはずの飯びつは、もう底を晒している。お前はよくがんばったよと、笑いかけてやりたかった。お前はよくがんばった、だからもう食うな、と。

 けど、めんどくさかったので、テレビのほうを向いてごろ寝した。扇風機の向きをこちらに固定。畳の跡が付かないように、座布団を枕にする。準備は、これ以上ないほど万端だった。

 押し出しで、一点取られたところだった。

「おかわりくださいよぅ〜っ、二日間えいちつうおう以外なんも口にしてないんですよ〜ぅっ」

「知りませんよそんなの」

「おなかすいたようおなかすいたよう」

「あーもう、しがみつくなこの餓鬼!」

「あぅぅ、やめてお願い腕ひしぎは関節が痛いの痛いの極まってるの」

 痴女の右腕が、五センチくらい伸びる。今日、野球の裏番組は柔道の世界戦だった。

 けれどテレビでは、巨人と阪神が戦ってる。

 相撲取りが土俵際で粘るように、桑田は次の打者を三振に打ち取った。

 扇風機のファン、金属バットがボールをぶっ叩く、痴女の悲鳴、お隣さんの息子が聞いてるチック・コリア、畳がきしむ、蝉が鳴く、階段を転げ落ちる。

 なつのおとだった。

 なつのおとは、うめきながら頭を振ると、身を起こしてとりあえずポケットからマルボロの箱を取り出し、逆さに振って中身がないので気落ちすると、諦めて居間に入ってくる。別にそちらを見ていたわけじゃない。ただ、田舎じゃ鶏の声で朝起きるのと同じくらい当たり前なだけ。

「うー、おはようございまふ……ながれくん……」

「おはよう、母さん」

「たばこ……ありませんか……」

「テレビの上」

「ありがとうございまふ……ふぁ」

 ずりずりと、なめくじのような歩き方。テレビの前まで歩こうと試みて、途中でテーブルにけつまずいて挫折した。派手にカレーの皿が舞いあがる。

「母さん、めがね」

「ふぁい……すいません」

 よいしょ、とポケットからメタルフレームの眼鏡を取り出して耳に引っ掛ける。バランスの崩れたシーソーよろしく左右の位置がずれてるのにはかまわないようだった。

 まずニコチンとタールを肺一杯に吸い込んで、しばらくテレビにかじりつく。

「……あ、もときくんがうちましたよー」

 一本をフィルターまで吸い尽くして、ようやく満足したらしく。

 御浦家の主である我が母は、いつものジッポのふたを開けたり閉じたりを三回繰り返した。

 後ろを振り返って。

「おや? 流くん、そちらの腕ひしぎ十字固めを極められて悶絶してるふうに見えなくもない御仁はどなたですか?」

「どこにでもいる、なんの変哲もない腕ひしぎ十字固めを極められて悶絶してる盗っ人だよ、母さん」

「そうですか」

 母さんは、二本目に火をつけた。

 なつのにおいに、乾いたようなヤニの匂いが加わった。

「あぅぅ……あたしをほっとかないでぇ……」

 なつのおとには、女のすすり泣きが加わった。

 手を離して拘束を解いてやると、痴女は肘をさすりながらひどいよひどいよとひたすら繰り返していた。

 母さんは、今日のご飯はなんですかと聞き、ぼくはカレーと答え、そうですかと母さんは返し、ぼくは台所からスプーンと氷水を取ってきて渡し、母さんはわたし甘口がよかったのにとぶーたれて、ぼくはわがまま言うなら自分で作れ母、母さんはれーこくむすこーれーこくむすこー。

 もうひとりは、さみしそうだった。

 別にそれに気づいたわけじゃないけど。というか母がそんなのに気づくことなんてあったら、突如見知った誰かが別の人間へそれは他星からの侵略者えっくすうんたらすんたらと疑うけど。

「ところであなたは、流くんのお友達ですよね? わたし、この子の母です」

 にっこりと、笑いかけた。

 その顔を直視してしまい、痴女はぽーと魂が抜けきったようになる。

 今までの経験則から、復活には十二秒かかるはずだ。

「……え! あ、ああはいそうです流くんにはいつもいつもお世話になってたりしてどうもありがとうなのですがええとその」

「あらあら、そうなんですか」

 なるたけ母親っぽく頬に手を当てて笑う御浦家母。

 そういえば、これでこいつに名前を覚えられてしまった。出来ることなら教えたくなくて、黙ってたのに。

「それで……ええと、なんて呼べばいいんでしょうか」

「あ、はい……えとえと」

 痴女はどうしてか首をひねり腰をひねり足首もひねって、何事か悩みだす。

 かなかなかな……

「あ、そうだ。かなです。日暮かな」

 そしてそいつは、明らかに偽名を名乗った。

「あらあら。まるで今ヒグラシがかなかなと鳴いてたからつけたような名前ですね」

 それは、明らかに当てつけ以外の何者でもない。普通なら。

「それにしても、いつきちゃんという子がちゃんといるのに年上に走るなんて、流くんも男の子ですねぇ」

「あーあーはいはいそーですね」

 今日も母は、楽しそうだった。

 ヒグラシが鳴いてる。かなかなと。

 

 

 結局そいつは巨人戦を最後まで観戦したあと風呂まで入って帰っていった。

 少し湯気を残したまま。髪を湿らせたまま。

 近くによれば、石鹸の匂いがした。

 じゃあねながれちゃん、またあそぼーねーっ。

 そう言って、当面の住処に帰っていった。

 そいつは、西風が吹いたら東に行って、東風が吹いたら西に行く。聞いたときに、風の又三郎とか、そういう名前を思い浮かべた。

 又三郎は、しっかりとぼくの名前を覚えて帰った。

 ぼくも、そいつの名前を覚えた。

 またね、かなさん。背中が見えなくなってやっと、ぼくはその名前をつぶやいた。

 月曜日九時のドラマの、十年来の親友が血みどろに殴りあうシーンの効果音。玄関からは、あまりに大きい蝉時雨のせいで、聞こえない。

 

 

 ぼくの部屋は一階で、四畳半で、午後からは隣の家の影に隠れて日が当たらない。貧乏学生のアパート暮らしを、八歳で実体験できる。

 九時を過ぎれば八歳児の体は寝ろ寝ろと急かすのは当たり前だけど、その前に重くなるまぶたを持ち上げながら机に向かい、夏休みの宿題全体の十分の一を済ます。算数のドリルを、耳無し芳一のお経みたいに鉛筆書きの字で埋め尽くす。それが終わってほんの少し文庫本のページを薦めて、水を飲んでおしっこをして布団を敷いて中にもぐる。ひとりの夜は、まったく計画通りに進む。

 これを四十二回繰り返せば、夏休みはやっと終わる。

 窓の四角に切り取られて、さらにお隣の屋根に遮られる星空でも、小さな隙間にわし座とへびつかい座が見える。夜が深くなってもヒグラシは鳴く。夏は、それを睡眠薬代わりに眠る。ぼくは夜中、ひどく寝つきが悪い。

 明日は何しようかとか思う必要なんて、どこにもないのに。

 夜だけが深くなって、眠れない。夏は寝苦しい。

 と。

 ぼくが横になって、しばらくもしなかったと思う。

 確かに聞いた。

 みう。

 いまいちあだ名としては不適切な“みう”とぼくのことを呼ぶのは、一人しかいない。

 聞き違いとは、違う。

「……いつき?」

 毛布をのけて、窓を開いて外を覗く。

 見下ろす位置に、これだけがクラスで一番の長い髪があった。

「……ど、どうしたのさ。もうじゅう」

 じ。

 言いかけた言葉を、飲み込んだ。

 いつきは夏であろうと冬であろうと変わらず肌の色が白い。だから、余計に目立つ。

 赤い頬。雪の地面に赤くて汚い絵の具をぶちまけたら、きっとこうなりそうな。

 殴られた、あと。

 三年前のと、おなじ。

「み、ぅ……みぅ……」

 くしゃくしゃに丸まったノートみたいに、見上げてくる顔がゆがんでいった。

 なにがあったのとか、泣かないでとか、その他もろもろの慰めを。

 ぼくは、ひとつも言えなかった。

「……みぅ……」

 のどの筋が痙攣するくらいに大きく、いつきは泣いた。

 そして。

「わたっ、し……あいっ、たい」

 なきながら、いった。

「おかっ、さん、にっ……あい……たい」

 おかあさんに、会いたいと。

 ――いつきには、母親がいない。

 いつきの父親と母親は、いつきが五歳の頃に離婚した。どうしようもないことだったらしい。それほどに、二人の仲はうまくいってなかった。子供の目から見ても、そうとしか思えなかったほどに。子供に、結婚するのは好きだからとか、そんな単純な幻想を許さないほどに。

 いつきの母は、離婚の手続きを済ませると同時に実家のある北海道へ出て行った。

 いつきの母は、いつきの生活から消えた。

 おかあさんに、会いたい。

「……いつき」

 ぼくは、その名前を呼んだ。

 何の意味もなく。なぐさめでも、はげましでも、なんでもなく。

 山道のコカコーラの自動販売機。

 飲み込むほど大きな木のうろ。

 茂みのおくから、笑い声。

 暗がりで光った目。

 殴られた、ほお。

 思い出す。三年前の夏のこと、すべてを。

思い出す。ぼくらはもう、知っていた。知ってしまった。

 ぼくらはどうしようもないほど子供で、無力だって。

 ――無理だ。

「……いつき」

 もう一度ぼくは、意味もなく名前を呼んだ。失敗だと、すぐに気づいた。

 蝉の鳴く声が、消えていた。血の気が失せて、青くなったいつきの顔。

「ごめん」

 いつきは、必死だった。しゃくりあげるのを押さえるのにも、のどの引きつりを我慢するのも、願いごとを諦めるのも、なにもかも。

 何かを言わないといけないのに。

「……おかしなこと言っ……て、ごめん。ごめんなさい……ごめんなさい……」

 かたまりのような違和感が喉に詰まっていた。なにを。何を言えばいいんだろう?

 ごめんなさいと、七回と半分繰り返して。半分、それから先を続けられなくなって。

 いつきは、夏の空に消えた。

 消えた。

 ぼくは誰もいなくなった庭を見ていた。乾いた地面は、足跡も残してくれない。もしかしたら、誰も来なかったのかもしれない。

 言いわけ。

 

 

 気づいたら、朝で。

 蝉時雨が、ひどくうるさかった。

 

 

【後編へ】

 

 

あとがき

 

 

 えっと、どうもです。

 わたしですか? centaurっちうへたれなやつです。

 今回、疾風さんのリクエストでAIRSSを書きまし――

 あああああ。殴らないで石を投げないで。

 いや、往人くんとか観鈴さんとか、なんでその辺の名前が欠片も出ないのかっちうとですね。

 これ、ほら、ラストに子供が二人でましたでしょう? あの子たち使ってるんですよ。まぁ、全て想像に頼ってますからそうとでも言わないとオリジナルと変わんないんですが。

 いや、なぎーは出しますよ(なぜ

 えっと、とりあえずわたしは生まれ変わり説じゃなくて、どっちかといえばただの子供説を推します。まぁ、仏教徒じゃないし、それに話のネタとしてちょっと陳腐くさいんで。

 とりあえず三話以降からこの話のスタンスが分かってくるんですが。この前後編はプロローグです。

 では、次は後編にてお会いしましょー。



  centaurさんからAIRのSSを頂きました。
  なんちゅーか、うん、ステキです(ぉ
  しかも連載物の予感。もう感謝感激の嵐です。
  自分はAIRのSSを書けないので、書ける人を尊敬します(何
  それでは、どうもありがとうございました。



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