この街に彼が来て半年が経つ。その間にいろいろなことがあって、紆余曲折を経て。
 季節は夏に差し掛かろうとする頃、 あたしは妹と一緒に、うだる暑さの中を行く。
「暑いー、死んじゃうー、お姉ちゃん助けてー」
「言わないで、ただでさえ暑いのに精神的にも暑くなるから。というか、栞。あんた日傘差してるじゃない。なんでそれで文句が出てくるのよ」
「乙女にはいろいろあるんですよー」
 乙女はやけに文句が多かった。ぽたり。アイスが溶けて一滴、地面に落ちた。ソーダ味である。
 消費税込み100円の涼は、購入から3分で危機に陥っていた。隣でも、妹の持つバニラアイスが溶解しかかっている。えてして、寒さは暑さに弱い。
「なんか……、いつもだとそんなに長く感じないけど、こう暑いと……長く感じるわね」
 遠くに蜃気楼が立つ。その向こうがわに、あるはずのないものを見せるのだ。空気が揺らめいて、それを裂くように、不透明な人影が歩いてくるのが見えた。
 手を振っている。どうやら―――いや、十割の可能性で、あたし達に向かって振っている。どんどん近付いてくるその人影には見覚えがあって、隣にいたはずの栞はいつのまにか、それに向かって駆け出していた。
 ゆっくりと歩いてくる彼の名は、相沢祐一。今日遊ぶ約束を交わしていたあたしのクラスメイトで、妹の想い人。
 栞がはしゃいで、彼の腕を取る。照れたように、彼は笑った。あたしはそれを見るだけ。
 何も思うところも、問題もない。そう、彼は友達だから。










 いつからか、笑顔と悲壮が反転した栞。あの日から、悲嘆と喜びが反転した栞。だから今、栞が笑っているのをあたしは心から喜んでいる。掛け値なしの喜劇はこれからが本番だ。それなのに。
「はぁ」
 溜息なんか出ちゃったりするわけで。
「どうしたの、香里。溜息なんてついて」
 さすがに目の前で溜息を吐かれては、天然が服を着て歩いているような友人でも何かあったのか、と勘付くのだろう。Aランチを探る箸を休めて、名雪が少しだけ身を乗り出してきた。
 こういった、心配をしてくれる人の存在はとても嬉しい。けど、それを素直に出すことは憚られるわけである。
 結果、「なんでもないわ」というつっけんどんな答えを返すことしかできなかった。
 手際よく学食を平らげて、そそくさと席を後にしようとして立ち上がった。すると後ろから、間延びした声。
「なにか悩みがあるんなら、遠慮なく言ってね。わたしたち、友達でしょ?」
 遠慮なく、頭に一撃を加えられた。
「うん、ありがと」
 それでも、あたしは社交辞令にも似たことしか言えなかった。自分で自分を殴りたい気分になる。親友の折角の優しさを流すように聞きながら、自己嫌悪をまとって、あたしは学食を去った。
 夏の暑さも相成って、自分自身へのイライラは鰻上りになっていく。蜃気楼が頭の大事な部分を占拠してありえないものを見せているように。あたしの脳裏をよぎる、幸せそうな栞と、相沢君。笑顔が咲き乱れている。
 はたして、その場所にあたしは行けるのだろうか?



 エンゲル係数が二倍になって、三倍になって、家計簿の額を見てお母さんが少しだけ眩暈を起こして。それでも栞が幸せそうに笑うので、みんながそれでいいと思った。あのままなら、こんな光景を見ることはできなかったのだから。
 嬉しそうに今日一日の出来事を家族に話す栞。鼻歌交じりでお風呂に入る栞。明日が待ち遠しくて仕方がないといった表情でベッドに潜る栞。朝陽を浴びて、一日の始まりを笑顔で迎える栞。
 どれも現実であり、同時に現実離れしている。何事もなく生きてきたあたしにはわからない、妹の見る世界。輝いて見えるであろうその風景を、あたしは見ることができない。どう足掻いても、あたしが見るものは、十数年間代わり映えしない世界だけ。
 その栞が見る世界に、必ず相沢祐一が映る。
 まるでとびきり素敵な恋愛映画のように、栞は夢を見る。その夢は十中八九叶うであろう。それは多分に漏れず、素晴らしい場所になることは間違いない。
 余計なものが何一つないその場所に、美坂香里と言うピースはあるのか。栞が復学してから、妙な焦燥感を覚えるようになった。
「はぁ」
「どうした、香里。溜息なんかついて」
「ちょっとね……、哲学的思考に流れを任せてたらいつのまにか気分まで滅入ってたみたい」
 相沢君はよく分かってないのか、顔を傾げる。今のは発言者のあたしもよくわからなかったが。しばらくして、笑いながら「いやー、香里は頭いいなあ」とのたまった。
 (この男は……)
 この能天気な男の頭を、次の時間に使う国語の教科書(角)で叩いてやろうか。
「……」
 実行しようと思って振りかぶろうとしたけど、やっぱりやめた。十七にもなって大人気ない。
 でも、本当に大人気ないのは、誰だろう?
「……はー」
「じ、重症だな、香里」
「ほんと、そうよね」
 気分に脚が生えて、カール・ルイスも目を白黒させるスピードで後ろの彼方へまっしぐら。際限がないとはこういうことと知り、またひとつあたしは無駄な知識を得た。
「まあ、何があったかは分からないけど」
 めいっぱい暗いあたしを見かねてか、相沢君が話を進展させるべく、切り出した。
「相談にはいつでも乗るぞ。俺と、キミは、ともだち」
 微妙な口調で、おどけるように言う。さすがに恥ずかしかったのか、「ほら、人類皆ともだーち」とかなんとか言いながら、誤魔化している。
 なんだかいろいろと馬鹿馬鹿しくなって、あたしは笑った。
「そうね。あたしと、キミは、ともだち」
 そう。
 美坂香里と相沢祐一は、ともだち。



「香里ー」
「ん? あら、相沢君。栞と帰るんじゃないの?」
「あいつ、委員会だってさ」
「そう」
 短い会話をしてから、なんとなく並んで歩き出す。玄関を追い越して、校門を追いかける。
「一日中不機嫌そうだったよな、香里。やっぱり何か悩んでるんだろ?」
「別に……」
 嘘と言えば嘘になって、本当と言えば更なる嘘が発生する。あたしの頭の中は嘘だらけだ。
「んじゃ、俺の悩み事を聞かせてやろう」
「別にいいわよ、そんなの」
「なに、遠慮するな。友達だろ」
「わけわかんないわよ」
「いいや、わけわかんなくはない。友達なら俺の悩みを聞いてくれってことだよ」
 得意げに相沢君は笑った。何が面白いのかとも思ったけど、それくらいならいいかと思った。
「悩みって、なに? 相沢君」
 仕方ないので付き合うことにした。
「友達が、悩んでいるにも拘らず相談も何もしてきてくれないこと」
 流し目で、相沢君があたしを見る。間違いなく特定の個人を指している言葉、というか、完璧にあたしのことだ。挑発ともとれる彼の態度だが、あたしはそれには乗らずにクールに振舞った。
「そう、それは大変ね。まあ頑張ってね、応援してるわ」
「む、つれないな香里。そこは『あたしでよかったら〜』うんたらかんたらの場面だぞ?」
「お約束展開はそんなに好きじゃないの、嫌いでもないけど」
 つまりそれは、どうでもいいということ。我ながらつっけんどんだとは思うものの、訂正する気にはなれない。
 話を強引にはぐらかして、あたしは早歩きで相沢祐一を突き放しにかかる。
「あ、おい、ちょっと待てって! 話はまだ序盤のジョバーニなんだって!」
 よくもまあ次々と出てくるものだと、彼の言葉を前方で聞きながら思った。



 あたしと彼は、ともだち。
 あたしの悩みを彼に打ち明けられたらどんなに楽になれるだろう。でも、それはけして、してはならない。
 してしまえば。
 あたしと彼は。



「……なんでそこでこの子が出てくるのかしら、あたし」
「え、香里、何か言った?」
「なんでもないわ」
 水瀬名雪に相談すると言うことがどんなことか、あたしは理解しているのか。理解はしているけど、理性はどこかに押し込められているのだろう。なんというか、今のあたしはひどく滑稽だ。
「それで相談ってなに?」
 いつもと変わらない間延びした口調で名雪は訊ねてきた。先行き不安。
「えーと、非常に言いにくいことなんだけど……」
 でも相談を持ちかけた以上、誤魔化すわけにもいかない。
「あるところに仲のいい姉妹がいて……」
 これが精一杯の、自分への譲歩。あっても仕方の無い見栄への執着が邪魔をする。
 一通りのチャートを説明すると、名雪は腕を組んで考え出した。真剣そのものらしく、うんうん唸っている。
「う〜ん、そのお姉さんは、妹さんの恋人のことを、好きってことなのかな?」
「……どうなのかしらね、わからないわ」
 名雪の言葉はひどく的確だった。なんでこういう時に限り、彼女は自分では気付かずに、人を見通すのだろうか。
「そうだとしても、別に悩むことは無いんじゃないかな」
 イチゴサンデーを掬って口に放り込んで、名雪は言葉を続ける。
「そこで恋人の男の子に好きって言っても、別に裏切りにはならないと思うよ」
「なんで? 妹の恋人を奪っちゃうかもしれないのに?」
 責めるように言うと、名雪は少しだけたじろいだ。けども、すぐに盛り返してくる。
「それは極論だよ。ほら、考えようよ。香里が好きって言ったからって、それでお終いじゃないでしょ? 祐一の気持ち、栞ちゃんの気持ち。色々あって、結論が出るんだから」
 いつになく真摯な、親友の言葉。あたしに突き刺さっていく。
「そうね……、って、ちょっと待って名雪!」
「なに、どうかしたの香里?」
 微笑んで、名雪は顔を傾げる。「してやった」という彼女の言葉が聞こえたような気がした。
「……知ってたの? あたしのことだって」
「わかるよ、友達だもん。それに……」
 そこで言葉を止めて、名雪は苦笑したまま顔を俯けた。
「わたしも、香里と同じだから。悩んでいることも、その悩みの種も」
 突然の告白。あたしはしばらく固まって、名雪は視線をあちこちに飛ばしている。
 そして、
「……マジで?」
「大マジだよ」
 そこでまたしばらく沈黙して。たまらなくなって、あたし達は笑い声を漏らした。
「まいったわね」
「そうだね」
 その後、だらだらと話をして、笑いあって。そして名雪と別れた。御代は、お礼という名目であたしが持った。



 心の中で、ありがとう。
 水瀬名雪と、美坂香里は、ともだち。



 翌日、通学路でばったり。
「おう、香里に栞、おっす」
「ふたりとも、おはよ〜」
「おはようございます、祐一さん、名雪さん」
「おはよ、相沢くんに名雪。今日も変な顔ね」
 そう言って、彼らの返事を待たずに、栞の手を取ってさっさと歩き出す。後ろから「なんだとー!」とか「ひどいよー」という叫び声が聞こえても気にしない。
「お姉ちゃん、どうかしたの? 嬉しそうだけど」
 栞が首を傾げ、あたしに訊ねた。
「そう? あたしはいつも通りのつもりだけどね」
「……変なお姉ちゃん」
 栞が笑いながら駆け出した。自動的にあたしも走る形になる。
「あ、こら、そこの姉妹、止まれっつーの!」
 相沢君が走り出して、あっという間にあたし達ふたりに追いついた。名雪はそれに追従する形である。
「ねえ、相沢君」
「ん?」
 4人で並ぶ形になったところで、相沢君の肩に腕を回して、引き寄せた。
「悩み、なくなったわ」
 すると相沢君は笑って、あたしの肩に腕を回した。
「そうか、それはよかった」
 互いにすっきりして、離れる。すると相沢君が手の甲を抓られた。「ぎにゃー!」という謎の叫びと共に、手の甲に富士山が建立された。
「お姉ちゃんと祐一さん、怪しいです。内緒話なんて」
「いや、別に怪しいことは何もないって。ただ、香里の悩みが解消されたってことで」
「……」
「し、栞さん、なんですか、その疑うようなっつーか疑ってかかっている目は」
「別にぃ、です」
 夫婦喧嘩には巻き込まれたくないので、あたしと名雪はふたりと少しだけ距離をとって、前方を歩く。
「さてと、名雪、これからどうするの?」
「そうだね、しばらくは様子を見るよ」
「偶然ね、あたしもそうしようと思ってた」
「うん、偶然」
 笑いあって、夏の道を行く。後ろで巻き起こっているであろう嵐には構わずに、前へ。
 追いかけてくる喧騒を迎え入れる準備は、出来ている。



 今も、これからも、ずーっとこれからも。きっと、キミはともだち。
 それでもいい、って思えたのは、たぶん、キミが幸せだから。
 だから。
 キミはともだち。







後書き
 いや、何書いてるんでしょうか自分。もうわけわかんざきですよ。
 というわけで香里SSのつもりだったのですが、なんでか途中で方向性が変わったというか、見失ったというか。
 なんつーか意味不明でごめんなさい。(生きとし生けるものへ精一杯の土下座)

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