汐の葬儀は静かに執り行われた。
 小さな棺に収められた汐は笑顔だった。
 まるで、寝ているだけで、今にも起きてきそうな―――。
 式が進み、棺が閉じられて、火葬場に着くまで。ずっと、汐のそばにいた。
 もしかしたら何もなかったように起きてくるかもしれない。そして、炒飯を作って、二人で食べて―――それは、素敵な夢だ。
 でも、分かってしまっている。汐はもう喋らない。動かない。
――――――笑わない。
「――――っ」
 限界だった。

 すべての行程が終了して、でも俺は独り雪の中にいる。早苗さんやオッサン、公子さんや芳野さん、藤林や春原が俺を呼んだけど、それでも、俺は雪の中にいる。
 しんしんと雪は積もっていく。背後で、雪を踏みしめる音。誰かが近づいてくる。でも、俺は動かない。
「朋也……」
 凛とした、聞き慣れている声。
 杏だ。高校時代の友人で、いつもバカをやってて、そして―――汐の通っていた幼稚園の教諭。
「なんだよ、風邪、引くぞ……」
「それは、あんたも一緒でしょ……」
 確かにそうだった。けど、俺は動かない。
 音が消える。すぐ後ろに、杏がいる。
「今日は―――」
 わざわざ、ありがとな。
 違う、そうじゃない。そんなことが言いたいんじゃない。
 何か気の利いた言葉の一つでもかけるべきなのに。口が声を出すことを拒んでいるように、動かない。
 渚だけでなく、汐も失ってしまった。喪失感が、俺の胸をくりぬいてしまっている。まるで、動くことのない空っぽの器のように、俺は佇んでいた。
 どれくらいそうしていたのか。杏が口を開いた。
「汐ちゃんさ、いつも朋也のことばっかり、話してた。朝の挨拶の時も友達と遊んでる時も、いつも」
 独り言。杏は独り言のように言う。俺は振り向けない。
「かっこよくて、優しくて、あったかくて、自慢のパパって。ホントに、嬉しそうに言うの」
「……っ!」
 なんで。なんでそんなことを言うんだ―――。
 俺は汐に誉められる資格なんて、持っていない。三年間も汐のことを見放していたのだ。
「……杏、やめてくれ」
「パパのこと、」
 だから。おねがいだから、やめてくれ―――
「大好き、って」
「やめてくれえっ!」
 膝が崩れた。雪が積もる地面に膝をついた。
 心をえぐられる。胸が軋んで、頭がくらくらして、呼吸ができているのかさえ、疑わしい。
「俺は……」
 掠れる声で。歪んだ視界で。声を、叫びを、絞り出す。
「俺は、汐に何もしてやれなかった。あいつを放っておいて、何もかも忘れたくて仕事に逃げたんだ……」
 吐き出したかった。
 鬱積したものをすべて、ぶちまけたかった。
「……あたしはここにいるわ、朋也」
 受け止めることを許容。杏はそれを示した。
「汐にはまだやりたいことがあった! 動物園に行けなかった! 列車に乗って、旅行にも! やっと、取り戻せるって思ってた! 親子として、歩いていけるって、思って……」
 更に視界が涙で侵食されていく。全身を脱力感が苛む。
「汐には楽しい未来があったはずなんだ! なのに、こんなことって、あるかよ……」
 止まらない慟哭。震える声が空気を咲いて、凍える空気が声を裂いた。
「朋也、本当にそう思うの?」
 杏の声も震えていた。
「汐ちゃんの人生は確かに短すぎたわ。楽しいこと、悲しいこと、嬉しいこと、驚くこと。……もっと、もっと、たくさん経験できた。だから、今はすごく悲しい」
 その言葉は痛い。心を直接穿つ。
「でも」
 杏の声が引き締まる。
「でも、だからって……汐ちゃんの生きてきた五年を否定するの? 意味がないものだったって、本気で思ってんの?」
「それは……」
 ない。汐を否定することなんて、絶対にない。
 汐はこの腕の中にいたのだ。泣いて、笑って、喜んで。そして、この腕の中で、眠りに就いた。
―――パパ……だいすき―――
―――さようなら―――パパ―――
 今も聞こえる、汐の最後の声。小さい小さい、けれど、強い声。
 強く生きてくれますように。そう、渚とふたりで決めた名前。優しく強く。そんな願いを込めて名付けた「汐」。
―――汐は、自分の最後を知っていたのだろうか?
 だから泣くのも堪えて、でも泣く時は誰にも見られないように、トイレか俺の胸で、静かに泣いて。
 強く生きようと、思っていたのか―――
―――さようなら、パパ―――
 だから。強く生きたことを伝えたくて。別れを告げたのだろうか。
 そう思うと、もう、耐えられない。
「汐は、五年しか生きられなかった。でもその中に、無駄な時間なんてひとつもなかった。汐は―――」
 堰。
「誰よりも、強く、生き、―――」
 切れた。
 地面に手をつく。雪を掻き毟った。血が出ても、止めなかった。
 歯痒くて、壊れそうで。俺は、あいつに、何かをしてやれたのか―――わからなくて。
 後ろから抱きとめられる。雪を一段と強く踏む音が聞こえた。
「ともっ、やっ……朋也っ……!」
 今にも崩れ落ちてしまいそうな俺を支えてくれていた。
 二つの嗚咽が聞こえる。堰を切り、今まで抑えていたものがすべて流れていく。
「もう失うのはいやだ。いやなんだよ、杏―――!」
 俺は壊れかけのラジオのように、ぼろぼろと涙を流す。
「だから、俺にこれ以上、与えないでくれ―――」
 ぬくもりを。
 いつかは消えてしまうぬくもりを。
 杏の腕に込められる力が、増した。
「当たり前じゃないっ!」
 杏が叫んだ。それは、俺にだけじゃなくて。自分にも言い聞かせるように。そう見えた。
「大切なものを失うのは誰だって怖いの! 確かに何もかもが形を変えて、いつか消えていく。だからみんな、強くあろうとするのよ! 今しかない今を焼き付けるために。……忘れないために!」
 抱きしめる力が、また強くなる。
「だからあたしは朋也に与え続ける。ぬくもりを、―――藤林杏って言う、あんたを好きな女として」
 だから、
 杏は接続する。
「あなたもあたしにぬくもりをください。岡崎朋也さん」
 精一杯の決意と共に。
「ずるいって、わかってる。朋也が弱ってること、わかってて言ってる」
 今の杏は、きっと泣いている。俺に負けないくらい、顔がめちゃくちゃになっている。
「でも今言わないと、きっとあんたは駄目になる。打ちひしがれたまま生きていくことになる。それだけは駄目だから。渚も、汐ちゃんも、そんな朋也は見たくないって、言っていると思うから。だから、あたしは言うわ」
 杏の拘束が解ける。そして俺の正面に、俺と同じ目線で。顔を抱かれる。
「藤林杏は、岡崎朋也を愛しています。だから、どうか忘れないでいて」
 どこまでもまっすぐに俺を。岡崎朋也を見つめて。
「朋也は独りじゃない。他の誰がいなくなっても、あたしがいる。あたしが消える時は、朋也が消える時。だから、おねがい」
―――パパ……だいすき―――汐。
―――朋也くん、大好きです―――渚。
「ここで止まらないで。後ろを向いてもいいから、前に歩いて。そして、」
 杏の顔が近付いて。
「あたしのぬくもり、汐ちゃんのぬくもり、―――渚のぬくもりを抱えて」
―――あなたも、強く生きてください―――
 唇が重なった。
―――わたしたちのように―――

 いつまでそうしていただろうか。雪はいつのまにかやんでいた。
 杏は俺から離れようとしない。まだ、不安に思っているのだろう。
 渚も、汐も。ふたりとも、自分が強くあるように行動して、強くなって、精一杯生き抜いて。自分がやるべきことを果たして、逝った。
 なら。
 残された俺も、そうならなければいけない。
「強く生きていく。いつか消える時、俺は強く生きたんだ、って、思いたい」
「朋也……」
「だから、おねがいします」

―――俺に、ぬくもりをください。