どこかで鐘が鳴っている。どこから聞こえてくるのだろう、と視線を横に向けると光その物のような赤に目が焼けそうになった。思わず目を覆い、そしてその手を離し風景を眺める。遥か遠方に見える赤い山、その下でまるでミニチュアのような赤い街。
「相沢さん」
 声をかける彼女の横顔も、赤い。
 どこか遠くを見るような眼で空を見ている。
「今日、星を見に行きませんか?」
 随分と急だな、と俺が尋ねると、ええ、と頷き、彼女は微笑む。
「突然行きたくなったんです」



『遥か、遠く』



 横を歩く彼女は背中には大きなリュックを背負い、白っぽいロングコートを着ている。手には手袋。頭には余り似合っていない帽子で耳まで覆っている。
「どうしました?」
「こんな寒いなら言えよ。美汐」
「この季節の夜なんて、暖かいはずがないと思いますが」
 常識でしょう? と言うように彼女は俺を見る。
「そうだけど」
「なら、さっさと行きましょう」
「早く行ったってなんもいい事ないだろ……」
「何を言っているんですか、相沢さん」
「ん?」
「星が見れますよ」
 俺は黙り込んだ。美汐の顔が赤いのは寒さだけではないのだろう。このやる気はとてもコイツとは思えない。
 不必要なまでに輝いている星を仰ぎ見て、俺は小さく息を吐いた。
 かすかに白く染まる。やはり寒い。
「寒くても、行きますよ」
「ああ、いいよ。行ってやろうじゃないか」
「それでこそ相沢さんと言う物です」
「お前、俺のこと何だと思ってんだよ」
「相沢さんは相沢さんですよ。他の何でもありません。ついでに言えば、大した物でもありません」
「帰るぞ?」
「冗談ですよ」
 俺は大げさに肩をすくめて見せた。美汐が不思議そうに俺を見る。
「……こいつは驚いた」
「なんです?」
「まさか美汐が冗談を飛ばすとは思わなかった」
「そうですか」
「おう」
 そのまま、美汐は黙り込む。なんと言っていいのか判らず、俺も黙った。
 ――やはり、今日のコイツはおかしい。いつもの美汐ならば、酷いですねとかそんな酷な事はないでしょうとか言って拗ねるはずなのに、今日は全くの無反応だ。そもそも星を見に行こう、なんてあいつの方から言い出す時点で奇妙だと思うが。
 俺は空を見上げた。底なし沼のような深みを持つ闇とそれとは逆に強烈に自らの輝きで存在を主張する星、その二つが奇妙に混じりあった暗い空。
 ただ綺麗、といえるほど単純な物ではない気がした。考えてみれば、一見小さいようなこの星は俺が立っている地球と同じかそれよりも大きいもので、しかもこの光は大昔に放たれた物かもしれないのだ。闇に関しては言うまでもない。空に見えるものはどこまでも広がって行き、終りのあるかどうかも判らない宇宙の一部分なのだ。
「でっけえなぁ」
「何がですか?」
「空」
 俺が呟くと、一瞬足を止め、彼女も空を見上げる。
 その目は何かに憧れているように見えた。
「そうですね」
「考えてみればさ。この空の向こう側に宇宙があって、星とかもめちゃくちゃ遠いんだろ? そう思うと……なんか信じられなくないか?」
「どこまで広がっているにしても、空は空ですから」
 何となく口の中で美汐の言葉を俺は繰り返してみた。静かな暗闇にその言葉は一瞬だけ響く。
「でも、こうやって変わらないように見える星とかもほんとは段々変わっているんだろ?」
「それでも、私にとっては変わらない様な物です。見ているだけなら、違いはないでしょう?」
「ないって訳じゃないだろうけどな」
 星なんていつも見ているわけじゃないから判らないが、夏の星と冬の星は違うと聞いたような気がする。
「……それより、行きませんか?」
「ん、ああそうだな」
 美汐の言葉に頷き、俺はまた歩き始めた。
 虫の鳴き声を背景にコンクリートで舗装されていない道を歩く。しっかり話を聞いたわけではないから今どこに向かっているのかは判らないが、美汐によると穴場があるらしい。星はたやすく街灯に消される。だから周りに人口の明かりがない所に行くと綺麗に見えるとかなんとか。
 しばらく無言で進むと、ほとんど街の光が届かない道になった。いったん美汐は立ち止まり、リュックを下ろしそこから懐中電灯を取り出してつける。
 準備万端だな、と俺が言うと、慣れてますから、と彼女は答える。すぐにまた歩き出す。足取りは速い。いつもは彼女に歩く速度に俺があわせているのに、今日は早足で歩かねば置いていかれそうだった。
 上がり坂を早足で進み、曲がりくねった道を美汐の後に続き、あるいは林の中を無理に突っ切り。
 突然、開けた場所に出た。
 一面に広がる草原。遠くに辛うじて街があるのが確認できる、そんな人の手から遠い場所。空に広がる星と月もこの丘を見ているような、そんな気がする所。
 暗いせいでよく見えなかったが、見覚えのある場所だった。
 いや忘れるはずのない場所と言った方が正しい。例え目が見えなくなろうと、この場所に来たならば俺はそうだと判るだろう。判らねば、ならないだろう。
 先についた美汐は俺に背を向けて、ぼんやりと空を見ている。
「なぁ、美汐」
「なんですか?」
「なんで、ここなんだ?」
 彼女は振り向いた。その表情は良く見えない。
 けれど後ろに広がる空のせいか、いつも以上に小さく見えた。
「星が綺麗に見えますから。ここ……ものみの丘は。昔からここは星を見る時、昔はもっと深い意味があったんでしょうけどね。その時はここに来ていたそうです。そう、本で読みました。だから、ここに来たんです」
 先ほどまでの早足が嘘のように、ゆっくりとした足取りで彼女は俺の傍に戻ってきた。リュックを降ろし、小さな包みを取り出す。
「相沢さんもどうですか?」
「なんだ?」
「お弁当です。夜食……と言った所でしょうか」
「……変な奴だな。お前」
「朝までいるんですから、お腹もすくでしょう」
 俺は何か言い返そうとして、思わず口ごもった。
 ――ため息を、一つ。
「ほんとにお前は変な奴だよ」
「あなたに言われたくありません」
「これからは美汐には俺も言われたくないな」
 肩が震えていたから、美汐が笑っていると判った。






 美汐が作ってきたのはおにぎりだった。お世辞にも綺麗にまとまっているとは言えない形の物が六つ。しかも、一つ一つがかなり大きい。
 座り込んだ俺は無言でそれに口をつけた。
「美味しいですか?」
 横の美汐に答える。
「ご飯の味がする」
 無言で、ため息をつかれた。
「いや、まぁ、まずいと言えない事はないんじゃないかと思うくらいにはうまい」
「あまりおいしくないと言う事ですか」
「そう言う言い方が出来ないといわれると少し首を傾げたくなる気分」
「素直に言ってくださって結構ですよ」
 美汐も自分の作ったオニギリをかじる。
 いまいちですね、と呟いた。
「料理、苦手なのか?」
「ええ。あまり得意ではありませんね」
「なんか、意外」
「そうですか。……少し、気になりますが、でもいいです」
 一つ食べ終わると、俺はゆっくりと後ろに倒れこんだ。視界一面に、星空が広がる。
 小さな音に横を見ると、美汐も仰向けになって倒れていた。
「綺麗ですね」
「そうだな」
「あの子も好きだったんです。星空」
「あの子?」
「ええ」
 俺は数秒沈黙した後、頷いた。
「……そっか。真琴はどうだったんだろうな。星空なんてしっかり見る暇もなかっただろうからな、あいつ。それとも、ずっと見てたのかな」
 俺がこの町を去ってから七年間。その間あいつは何をしていたのだろう。
 答えられる者はもう既にいない。いるのは同じ傷を抱えた今横にいるこの少女だけだ。
「でも不思議ですね」
「ん?」
「あの子がいなくなった時は、もう普通に暮らすなんて絶対に出来ないと思ったのに、今こうして相沢さんとここにいる。……いつも、この時期になると一人でここに来てたんです。誰かとここに星を見る日が来るなんて、思ってもみませんでした」
「まーな。俺も、こんな風に普通に今過ごしているのが嘘みたいだよ」
「いつか、こんな生活が嘘みたいじゃなくなって、ただの普通の毎日になってしまうんでしょうね」
「そうだな……そう言う物なんだろうな。たぶん」
「そうしたら、今度は逆にあの日々が嘘みたいになってしまうんでしょうね。あの子と過した、あの日々が」
「……かもな」
 微かに、草のすれる音がした。横を見ると美汐が半分体を起しているのが見える。
 表情はわからない。遥か遠くの月を背負い、彼女は俺に問い掛ける。
「相沢さんは悲しいですか?」
「どうだろうな。悲しい気もするし、悲しくない気もする。良く、判らないな」
 美汐が笑った気がした。
 あるいは泣いたのかもしれない。
「悲しい、ですよ。忘れてしまうのは。相沢さんは経験していないから判らないでしょうけどね。忘れてしまうと、そこに何があったのかも思い出せないんです」
 彼女は空を指差した。
「あの星空と同じですよ。ほとんど思い出せなくなった闇の中に、僅かにしか残ってないんです。思い出と呼べる物は」
 星の光しか届かないこの場所では、隣で横になっている少女の表情すらうかがう事が出来ない。判るのは声が震えていることだけだった。
 俺は何も言うことが出来なかった。
 ただ、ぼんやりと空を見ていた。
 死んだ人は星になるという、そんな言葉を思い出しながら。
 夜空に向けて、俺は小声で呟く。
 星は遠くで輝き続けている。