僕と先生  信じるなんて誰が教えてくれるんだろう。
 信じるなんて信じられない。いったいどこの誰が考えた。こんな迷惑な感情。
―――えーと、よく聞こえなかったみたいなので。もう一回言ってもらえます?

 でもね。
 やってみようとは、思ってるんだよ。
















 空は青い。正確に言うと、太陽光の中で青色が一番空気中で散乱するから、らしい。
 僕は考えた。普段は使わない頭をフル回転させて考えた。中間テストも近いのに考えた。風呂の中でも食事中でも机に向かっても数学の公式を眺めながらも布団の中でも。
 月代直人の苦悩をよそに、空は無神経に広がる。十五歳が考える内容ではおそらく無い。でも、実際に考えているわけで。
 ヘビーな現実が自分を取り巻いている。小柄な自分ではフェザー級がいいところだろうが、相手はヘビー級だ。
 自力に違いがありすぎる場合はやはり戦術を駆使して戦う他に無いのだ。
 凛が言った言葉と、投げかけた問い。
 我が妹はエスパーかなにかだろうか。こうなることを読んでいたならその筋もありえないとは言い切れない。
 信じるとは何か。信じるとは具体的にどういうものか。
 気がつけば備わっているはずの感情が、円条はるかには存在しない。
 もの凄い難問。東大も早稲田も慶応もマサチューセッツも目じゃない。
 しかし問題を解けないのが現実。今まで記録してきた偏差値も点数も役には立たないのだ。
「……」
 寝転びから立ち上がって、草原に両の足を踏ん張った。
 でも、空は近くに寄って来てはくれなかった。
















 愚鈍。
 相応しすぎてため息が出てくる。
 はっきり目の前で、声を大にして、近所の主婦達の話題に上がるくらいに大きな声で言ってやるのがいいのかもしれない。
 教師がチョークで黒板を打ち、生徒たちは必死に模写をする。
 今頃、兄はそんな行為なんてそっちのけで悩んでいるに違いない。
 変なところで真面目なのだ。彼奴は。
 変に不器用でも真摯だからこそ、人が集まる。
 そして円条はるかは、そんな彼に好意を抱き、抱かれている。
 ちょっとだけ、先生が羨ましかったりする。そんな、村上凛十四歳。
「村上、鎌倉幕府の将軍と御家人の関係は俗になんと言う?」
「御恩と奉公です」
















 そう、御恩と奉公。去年の今ぐらいに、社会教師の田村茂教諭が、そんな風に熱弁を揮っていた。
 今は亡き先人たちの功績はこうやって代々受け継がれていくのだろう。
 もっとも、詰め込み方式の授業を受ける生徒たちにとっては、今は忘れたい記憶であり、十年後には酒の肴になるに違いない。
 人間は都合のいい生き物である。改めて思う。
 僕はなるたけ自分に損害が少なく、かつ、円条先生に解らせる方法を模索していた。
 でもやっぱり人生とはえてして上手くいかない。そんな方法が無いことは最初から解り切っているのだ。
 覚悟を決めろと誰かが言う。
 覚悟を決めろと自分が言う。
 もう戻れないところまで僕は足を踏み入れている。今なら戻れるぞ、さぁ、どうする? 再び、悪魔が潜在意識から解き放たれ、僕を蹂躙する。
 白旗はもう握られていた。あとはこれを掲げて、応援団の団旗のように振るだけなのだ。
 準備はできているぞ。楽になれるんだぞ。さあ、さあ、さあ、さあ。
 ライターを探した。百円で売られている安物でもいい。マッチでも受け付けます。目的のものはどこだ。
 気付くと、手には松明があった。炎が煌いている。添えるように、白旗に松明を近付けた。
 白はあっという間に赤に塗りたくられ、空気に溶けた。姿どころか存在が見えなくなった。黒いススは勇気の証。
 どうだ。これでもう文句なんて無いだろう。視認できない悪魔に向かって声高らかに叫んだ。
 夜の校庭で僕は決めたのに。まだ燻って、まだ悩んで、なんて情けない。
 歴史の授業で決心が固まったなんて、微妙すぎる。
 月の代わりの太陽はぎらぎらと輝く。今、校庭ではソフトボールが行われている。カァン。乾いた音が微かに響く。
 いっそのこと、白球になれれば、打たれて投げられての毎日だ。思い悩むことなんてないだろうに。
 現実逃避は戯言のように溢れ返っている。自分も、その中の一人なのだ。
 さあ、考えて考えて導こう。決意と覚悟と、そして答えを。
















 最近の私は変だ。
 考えもしなかったことについて策を練り、自分を破壊しようとしている。
 何かが足りず、何かが過多状態。
 需要と供給もへったくれもないアンバランスさが私の中で形成され、大手を振って闊歩中。昔の私は隅っこで膝を抱えて引き篭もりの真っ最中だ。
 はぁ。
 暇なもので、ため息の数をカウントしてみた。合計三十七回。今まで生きてきて、一日に吐いた数としては最高記録。
 やった。と手を上げて喜ぶ―――わけはない。逆に気持ちは下降し始め、折れ線グラフは限りなくゼロに近付く。
 なんて虚しい。
 どうすれば、どうにかなる。
 こうすれば、どうなってしまう。
 ああ、もう何もかも判らなくなりそう。精神科にでも顔を出すべきなのだろうか。
 診察券は財布の中。行こうとすれば行けるけども。
 行ったとして、何を話せばいい。苦しさは感じていないのに、病院なんて却下。
 心地良い破壊活動は今日も順調に進んでいる。
 きっと新しい私は笑顔だ。
「以下の漢字の読みを答えよ、と」


















「先生は僕を信じる、信じない、信じる、信じない、信じる…………」
 花をつけた雑草を毟り取り、信憑性のかけらも無い占いをやってみた。
 三寸の虫にも五分の魂。雑草も生きている。許してくれとは言わないけど、判ってはもらいたい。
 ぷっ。最後の花びらが抜かれた。信じない。
 脱力感。でも、こんな非科学的な根拠も無いことは信じないことにした。
 やはり、人間は都合のいい生き物である。自分がそのコミュニティの中に属していると改めて覚り、さらに力が抜ける。
「直人」
 予測していた通りに、後ろから抑揚の無い声。
 怯えを覚えて僕は振り返る。目を細めた妹がいた。心なしか、目から冷凍光線が出てきそうだ。
「な、なに?」
 ぽとり。
 握り締めていた茎が落ちる。音もなく落ちる。擬音は、僕の脳内だけで駆け巡った。
「馬鹿?」
 強烈な一撃が僕の脳髄を揺らす。
 懇親の力を込めたストレートパンチをジョルトカウンターで返された。そう、これが適切。
 世間一般の妹というのはこんなにも辛辣なる存在か。そうならば、全国の兄に同情をしなければならない。
 同情しても事態は好転しないが。少なくとも、村上凛の優勢は揺ぎ無いだろう。
 フォールをくらって、ワン、ツー、スリー、ハイ。決着。紙吹雪が舞い、僕はマットに平伏すのだ。
 悲しい身の上話は同情を引くけど、あいにく僕はそんなことを望まない。さて、我が妹の用件を訊こうじゃないか。
「凛、用はそれだけ?」
「うん」
 心底から自分を情けないと思った。同時に苦笑。同時に涙腺が決壊しかかる。
 そこは男の子なのでぐっと我慢。一秒、二秒、三秒、四秒、五秒。涙は引っ込んだ。
 庭を臨みながら花占いに興じる兄とそれを冷やかす妹。
 シュールすぎる題材だ。描写する画家は苦しむに違いない。
 本来ならば逆の立場の僕と凛。その本来すら今は危うい。威厳なんてものは幻想だ。
「直人、あのね」
 月代直人の将来を憂いでいると、凛が珍しく穏やかに微笑んでいた。
 そうか、ついに兄を敬う気になったのか。うん、お兄ちゃんは嬉しいぞっ!
「真面目にやって」
「はい、すいません」
 人はどこまで愚かになれるのだろうか。
 自分がそのサンプルになり得そうで、悲しいような嬉しいような。


















 鉛筆は信用できるかどうか。何かを書き記すには絶大なる信頼を寄せることができる。字は嘘をつかないからだ。
 転がして確率に賭けるという手もある。選択肢は四つ。
 ころころころころ。
 六。
 最後に頼りになるのは己自信なのだ。勝ち取れ、及第点を。
 三、四、四、一、三、二、四、四、三、一、三、三、二。
 よくよく考えれば理解しうる設問だった。不透明な確率に賭けるのはとんでもない愚行だった。
 この答えはすべて正解か、不正解か。白か黒かの世の中を象徴している。
 偉い人が白と仰れば白。黒と仰れば黒。踊れと命令されたら阿波踊りをしてご機嫌とり。
 その行為にどれだけの価値があり意味があるか。保身は果たせる。安定した収入も得れるだろう。
 利口な人間ならそちらを選択し、無難に人生を生きていく。
 月代直人はどうする。十四年の人生で培ったものを総動員しろ。理屈で選ぶな。
 理屈は感覚を狂わせる。ありのままの姿を変形させてしまう。
 電子のチャイムが鳴る。教室内に必要以上の音量で響き渡る。うるさいな、と生まれてはじめて思った。
 机上の答案は一番後ろの席の生徒が回収し、監督の教師に渡す。大袈裟に縦と横を揃え、大きな咳。うぉっほん。起立。礼。
 休み時間がやって来た。でも考えることは変わらない。変わらないのだ。
 でも僕は変わった。そして、円条はるかを変えようとしている。それはエゴか? エゴだ。
 浅い付き合いでいようとは思えない。心底から、僕は彼女に参っているのだ。凛に言えば、生き地獄が待っている。
 どこまで出来るか。いや、違う。
 どこまでもやるのだ。勝ち取るのだ。突き進め、剣を翳して。
 今にも折れそうな剣だろうけども、折らせはしない。真正面からぶつかっていくしか僕にはできない。
 視野を狭め、余計なことは捨ててしまえ。見据えるのは彼女だけでいい。
 標的は見えている。想いは弾丸だ。今こそ放て。
 駄目だという考えに反逆しろ。弱い考えこそが強さなのだ。
 僕は弱いけど、強くなる。
 先生を支えられるぐらいに。
 先生が信じるに値するくらいに。


















 五月にしては暑い日、紙切れが生還を果たした。
 赤のペンでマルとバツの乱舞が描かれている。紙切れの右上には自分の名前。その横、八十三の文字。
 鉛筆は正しかったのだろうか。僕が正しかったのか。
 おそらくで言えば僕が正しかったのだろう。ヒトの思考回路と六分の一では差は歴然らしい。
 選択問題はすべてに赤いマル。記述問題、サンカクがやや見受けられる。
 サンカクは曖昧だ。正解と不正解の中心で思い悩む存在に違いない。
 僕はサンカクだ。三歳児が赤いクレヨンで画用紙に描く、歪な形のサンカクだ。
 内角の合計が百八十で収まるか、それとも不足するか、計らなければ解らないのだ。
 未知数だ。テストのように百以内の数では甲乙はつけられない。数であるかも怪しい。
 僕は、挑む。
 国語の答案用紙を握り締めた。くしゃ、と潰されて、形を変えた。
 八十三には意味があるか。無難には意味があって、挑戦には縁がないのだろう。
 ならば僕は後者になろう。
 具体的な解決案も何もない。挑戦することに意味がある。誰が言った言葉、迷惑そのものだ。
 今は挑戦して成功することに意味がある。成就しなければやることもやってきたことも水泡に帰る。
 人魚姫は海で水の泡になった。僕もそれを模倣するのか。
 でも僕は尾ひれも背びれも無いし、海の中で呼吸ができるわけも無い。そうだ、僕は違う。
 やるしかない背水の陣。援軍は無し。さぁ、こっちも決死だ。かかってきやがれ。
 散るなら潔く、でも、敗れる気も無い。
 しかし焦っても仕方が無い。皺だらけになった答案を乱雑にズボンのポケットに突っ込む。
 気長に、頑張ってみよう。


















「でね、最近おかしいんだよ」
『へー』
「なんかぼけっとしちゃってさー」
『へー』
「杏子、聞いてる? 一+一は?」
『に』
 呆れた。
 電話越しの会話は、親友のいいかげんさを思い知ることとなった。
 アクエリアス入りのペットボトルを片手に、調子のいい友人に悩みを打ち明けてみたのだが。失敗だったのだろうか。
『はるかはさ、どうなの?』
「なにが?」
 突然切り返された。へーとへーとほーとしか頷かなかった彼女の口調はいつになく真剣に聞こえた。
 どういった心境の変化だろうか。
『月代君とはどうしたいわけ?』
 がん。
 受話器がまるで私の掌から逃れるように滑り落ちた。
 私は電話してから一言も月代直人のつの字も挙げていないのに。秋吉杏子はエスパーなのか。
「なっ、なっ、なっ」
『あっはっはっ、予想と同じ反応をありがとう』
 受話器を拾い上げた。耳に当てたら、杏子が心底可笑しそうに笑っていた。
 今度会ったらチョップだ。本番に向けての素振りが必要である。
「ま、いっか……」
 人間、時には諦めることも必要である。相手が相手なので、それは尚更。
『少年もね、頑張ってるんだよ。はるかみたいにね』
「え……」
 すべてを見透かしているような声色、単語の集合、ことば。
『気長に待ってあげたらどうかな』
 的確すぎる。あまりにも、彼女の言葉は的確すぎる。
 やはりエスパーの線は濃厚だ。
「……、気長に、かぁ」
『そ、ゆっくりとね。はるかも月代くんも、まだまだこれからなんだからさ』
 ありがと。
 ぴ。
 電話であろうが、正面切って言われると、少々照れくさい。
 世間一般の二十二歳のように育っていれば自分はどうなっていただろう。
 杏子とは出会えただろうか。月代君とは出会えただろうか。
 こうして悩むことも無かったのだろうか。
 少し、歯痒い。


















「あ」
 声の輪唱。
 絶妙なほどにハモってみせた。しばし僕と彼女は硬直状態になる。
 キーンカーンカーンコーン。
 電子音。きっかけになって、停まった時間が動き出す。時刻は午後五時。
「い、今、帰り?」
「あ、は、はい。先生もですか?」
「う、うん、そうだよ」
 ぎこちない。とてつもなくぎこちない。
 秋吉杏子は言った。気長に。
 月代直人は考えた。気長に。
 でもやはり、目の前にしてみると思い通りにはいかないものである。
「そ、それじゃあそーいうことで!」
 どういうことですかっ。
 僕が突っ込もうとした時には、既に円条はるかの姿は遠近法により小豆よりも小さくなっていた。
 彼女の足の速さに驚くと同時に、呆然としている己を冷静に見つめる自分。なんだ、けっこう落ち着いてるんだな、月代直人は。
「……じゃなくて!」
 脚に喝を入れると、風景が目まぐるしく変わり始めた。
 五十秒を七秒で駆け抜ける速さは、果たして国語教師に追いつくか。
 終わらせることができるが、終わりがない距離無制限のマラソンが始まった。


















 人を掻き分けて、街を掻き分けて。
 距離は縮まっているのか伸びているのか。同じところを走っているのか違うところを疾走しているのか。
 七つの子が街頭のスピーカーから流れ始める。もう時刻は五時を三十分ほど過ぎた。小さな子供達が走りながら家へと帰っていく姿が視界の隅に写る。
 じわりじわり。
 体力勝負なら始めから軍配は僕に上がっていたのだ。
 じりじり。じりじり。
 いやらしく照らしつけてくる太陽のように。
 じわりじわり。
 汚かろうが卑怯だろうが罵られようが。
 じりじり。じりじり。
 僕は前に進む。彼女も巻き添えだ。
 じわりじわり。
 心臓が張り裂けそうだ。呼吸はできているか。苦しさなんて、もう通り過ぎた幻影。
 差は、もう無かった。
 不足していた酸素を一気に肺に取り込む。汗が決壊したダムから流れる水のように溢れ出てくる。シャツに張り付いて気持ち悪い。
 ズボンも汗だくだ。まるで、自身が汗をかいたかのように、濡れていた。
 鞄を伝って汗がアスファルトに落ちる。今までの人生でこれほど動いたことは無い。
 視界はまだ歪んでいる。気を緩めたら、そのまま地面で一夜を明かしそうだ。
 でも離すわけにはいかないものが僕の手の中にある。
 正面から真っ向から真正面から。
 今僕はどんな顔だろうか。彼女はどんな顔なのか。
「つ……捕まえ……た……」
 声は途切れ途切れ。きちんと発音できているかも怪しい。
「せ、せんせー……、逃げないで……」
 もう少し気が利いた言葉は出ないものかと自分に拳骨をかましたくなる。ごちん。痛いだろうなあ。
「話そうよ……、ちゃんと、……さ」
 これ以上は言えなかった。否、言わなくても良かったのかもしれない。
 先生も僕と同じく、疲れ切っているのだ。逃げる気力も抵抗する気力も無い。
「……月代、くん。……あの、ね」
 掠れた声で円条はるかが、やっと喋った。
 呼吸が整合を始める。心肺機能回復。血液の流れオールグリーン。健康への影響、特に無し。
 そして耳が正常に機能し始めた。澄んだ声は、やや掠れ、ややしゃがれ気味。
 僕も人のことは言えない。声変わりはまだなのに、声変わりしていた。三十分フルマラソン、恐るべし。
「私もね、考えたよ。月代君に負けないくらいに」
 ということは、だ。
 彼女に自覚はあったらしい。自分が月代直人と同じで、過去であることは。
「でもね、やっぱり判らなくなっちゃった。どうすればいいのか」
 痛い。ちくちくと脳に針が刺される。痛みはあるのに狂うことができない。なんて残酷で美しい。
 彼女は今、誰もいない深夜の公園で、見知らぬ男に犯されているような気持ち悪さを味わっているのだろう。どこからどこまでも、似たもの同士。
 齢二十二にして、十の円条はるか。齢十五にして、二十二の月代直人。
 だからこそ、歩み寄る余地はあると思う。少なくとも僕はそう思うのだ。
「だったらさ。先生」
 月並みだ。誰に言っても月並みと言われるに違いない。
 どれが一番効果的か。どれが敵を完膚なきまでに破壊できるか。どれが一番静かに完殺が可能か。
「一人で抱え込む必要は、無いんじゃないかな」
 ああ、どこまで僕は。
 ああ、どこまで僕は。
 どこまで、僕は馬鹿になっているのだろうか。
 ああ、どこまで僕は。
 ああ、どこまで僕は。
 どこまで、僕は駄目になっているのだろうか。
「でもさ、私、迷惑かけるよ」
「知ってる」
「いきなり平手をかましちゃうかもしれないよ」
「避けるから」
「いきなり走り出しちゃうかもしれないよ」
「地の果てまで追いかける」
「あと、あと……」
 必死で、僕から離れられる材料を先生は模索している。
 でも、生憎と、僕は離れられそうにはない。
「先生」
 一際強い口調で言う。手を強く握る。先生の体が震える。
『町内会より、午後六時をお知らせいたします』
 日はもう、落ちきっていた。


















 戻る