境目を、あの人は見た。ただその境界を実際に踏み越えることは無く、その線上に差し掛かろうとした瞬間。わたしが覚えているのは、轟々と燃える機体と、真っ白な白だけ。
 命が助かっただけでも儲けものと思えるほどの大クラッシュ、彼はそう言っていた。怪我が治れば、何度でも挑戦するさ。朗らかに笑った。

 医者は再起不能を言い渡した。走る事が生きる事と同義の彼にとって、それは 死ね と言われることだった。左足切断、右半身麻痺、左腕の神経の半分、小指と薬指切断。F1ドライバーでなくとも、これは癒しようもない傷痕である。
 医者が出て行ってからしばらくして、彼は静かに泣いた。嗚咽を漏らし、顔を不完全な右手で覆って。なにか俺が悪いことをしたのか、なんで俺だけが。呪詛のように、それだけを繰り返していた。わたしに出来たことと言えば、ただ彼の頭を抱くだけ。
 その感触は前とちっとも変わらない。たとえ体のどこが欠けたとしても、わたしにとっての彼は変わらない。でも、彼は泣きやんでくれなかった。
 いったい、何が駄目なんだろう? わたしはここにいるし、いつだって傍にいるのに。走れなくなっても、わたしとあなたは変わらないのに。

 一週間。わたしは呆然とする。
 部屋いっぱいに設置された器具とダンベル。昨日は無かったものが、今日はある。十三時間の間に取り寄せたらしい。いやはや、無茶をするものだ。苦笑して、ベッドの傍の椅子に座った。
 絶対に復帰する。俺はもっとあの瞬間に行きたい。
 あの瞬間。それはきっと、彼が事故前に語っていた「境界」。速さと風の境。おそらく、彼は見たのだ。事故を起こす前に、その境目を。それは見るものの心を惑わし、触れたものの心を狂わす、麻薬。
 しかしそれは夢だ。走る人達にとって、いつまでも夢でなければならないもの。誰かが辿り着いて、越えてしまえば。夢でなくなった瞬間に、急激に誰もが死んでしまう。生と死の境界でもあるのだ。
 でも、彼はそこに行きたがっている。たとえ叶わぬ夢だとしても、それを糧に頑張れるなら、それもいい。わたしは、わたしに出来ることを。わたしにしか出来ないことをやろう。

 四年が経つと周囲の状況もがらりと変わる。
 明日ここで、また始まるんだ。
 嬉しそうに彼は笑った。まだぎこちないものの、ひとりで立って歩き、走り、止まり、座れるようになった。血を吐くようなリハビリと、諦めないという屈強な決意の成果。彼は再び、夢の世界の切符を手に入れたのだ。
 絶対に叶わない夢を追い求めて、それでも彼らは走るのだ。このストレートとカーブの夢郷を。まだ見ぬ風を見るために、死すら厭わずに。
 さて、教えなければならないことがある。
 なんかいいことあったのか? わたしを見て、彼が訊ねてきた。
 明日、一位になったら教えてあげる。
 三ヶ月ということを。