未知の感覚。自分の右手を包み込むそれは、容赦なく、それでいて優しかった。ぬるま湯に浸かる感覚が絶え間なくやって来るけど、それは俺をきっと駄目にしてしまうものだ。
「どうかしたんですか? 由姫さん? もしもし?」
 つーか、もう、勘弁してやってください。
 俺が悪かったです。完全完璧、一部の隙もなく俺が悪いでいいですから。どうか、この右手を包み込むマシュマロをどうにかしてください。
 この感触はやばすぎる。中毒になりかねない。男はごつごつしてて、女の子は柔らかいとは想像がつくけど。実際問題、想像はえてして現実ではないのだ。
「ババさま、巨神兵死んじゃったー」
「その方がいいんじゃよ……じゃなくて」
「ああ、生きてたんですね。返事がないからてっきり弁慶の立ち往生かと」
「混ざってる上に次元が違うぞ」
「あっはっは」
 ふたばが笑いながら、しかし遠慮なく俺の背中を叩く。繋いでいた手は宙ぶらりん。まるで俺みたいに、宙ぶらりん。
「まあいいじゃないですか。要は意味さえ伝わればいいんですから」
 正論。宙ぶらりんの手は、その直後に掬われた。握られた右手の感触が心地よいようで、妙にこそばゆい。別に世間一般が特別な関係と位置づけるものではないので、こうやって堂々と手を繋いで買い物から帰ると言うのは、どうも慣れない。
 照れとか、まあ、照れだが。十数年生きてきて、こんな風に手を繋いでくれる存在はあの日のイサナとふたばだけであるからして。
「……」
 ふと、ふたばを見やった。楽しそうである。買い物袋を振り子のように、小さく揺らしながら。日曜の麗らかな昼下がりの、いたって平和で、ありふれた情景。
 しかし手。迸るほど手。手と手。触れ合うどころか互いを離さない手。マシュマロが、俺を際限なく苛む。
「由姫さん、顔が赤いですけど。どうかしたんですか? 今度こそ死んじゃいましたか?」
「いっそ殺してください」
 純情一直線。







 あの後。あの後は。
 簡潔に言えば、これからもよろしく。
 詳しく言うと。
 生活能力のせの字も無い由姫にとってふたばの存在は現人神にも等しいものであるが、そう素直に受け入れられるはずもない。しかし意志薄弱に優柔不断を兼ね合わせる由姫は、結局屈してしまった。笑うなら笑うがいいさ、へっ。とは彼の弁。
 現実、腐海と化していた鳴沢家はふたばが来たその日から別物に生まれ変わったように綺麗になり、まるで光輝くエーゲ海だった。彼は「Before」と「After」を対比してみて、迂闊にも感動してしまったことをよく覚えている。そしてヘドロにしてしまった自分のだらけた行いをも思い出し、しばし自己嫌悪に陥り、瞬間的な引きこもりさんにも見えた。
(まあ、それはそれとして)
 自分に出来ないことをやってくれる人が身近にいると言うことは、なんと素晴らしいことなのだろうか。しみじみと由姫は感じ取っていた。
 鍵を開けて靴を脱ぎ、リビングへと荷物を降ろすために入室する。
「おかえり、我が息子よ」
「あらあら、彼女も一緒に帰宅なんて」
「ウェーイ!?」
 空を舞う二つの、荷物が入っているビニール袋。後ろにいたふたばがそれらをナイスキャッチ。ゆうきは まひしている!!
「駄目ですよ由姫さん、買ったばかりの物を。物は大事に、ですよ」
「その通りだぞ由姫、まったくこれだからモテないんだ」
「やぁね、器が狭い男って。物を大事に出来ないんだから」
「久し振りに会った息子に向かっていきなりそれですかこの電撃エレクトリック両親つーか帰ってくるなら連絡ぐらい入れやがれ」
 ワンブレス。
「ちょっと聞きましたかはるかさん、我らの力作がぐれちゃいましたよ」
「やーねぇ、あーなったらおしまいよね。生きてるうちに孫が抱けるのかしら」
「大丈夫ですよ、そのためのわたしです」
 ふたばがえっへんと言いながら、得意げに言った。由姫は言ってる意味分かってますかこの野郎と思って、さりげなく彼女の後頭部を小突いた。
「いたっ。何するんですか由姫さん! お嫁に生けない体になったらどうしてくれやがるんですか!」
「小突いたぐらいでなってたまるかコンチクショウ」
 いつも通りのやり取りをするも、由姫にはしっくりと来ない何かがあった。両親は二人のやり取りを見て微笑んでいる。そうだ、おかしいんだ。由姫は悟った。
「ところで父と母、訊きたいことが」
「まぁ待て。お前の言いたいことぐらい分かっている」
 凛然とした表情で、由姫の父である直人は言った。
「久し振りに会った父の胸で存分に甘えるがいい! さあ、さあ!」
「地獄に落ちろ」
 右ストレートでぶっ飛ばした。まっすぐ行ってぶっ飛ばした。見事なパンチを受け、直人は悶絶した。
「直人ったら駄目ね。由姫だって性欲溢れる青臭い春を求める年代なのよ? だったら同じ親でも異性であるわたしの胸で「頼みますから黙れ」
 げんなりして、由姫は頭を数回振る。そうしてから深呼吸、落ち着きを取り戻してから、真面目な顔になった。
「いつ帰って来たの?」
「今日。ついさっき」
「俺は母さんたちになんの連絡もしてないし、そっちからも俺にしてないよね」
「えっへん」
「いやそこ威張るとこじゃないし」
 気力をいい感じで奪われながらも、由姫は諦めることなく質問を続ける。子供は親を選べないというフレーズが、メロディー付で再生され、脳内を駆け巡る。
「なんでこいつの存在に突っ込みをいれない」
 ふたばを指差して、さらに両親に詰め寄る由姫だが。当の本人たちは視線をあちこちに逸らして、押し黙っている。
「いや、ほら、なんだ。由姫くん」
 突然敬語を使い出し、直人は息子を見る。
「君だって若いんだから、若さに任せてすごいことをするかもしれない」
「おーい」
「それは罪ではない、罪ではない。が、後悔の種にはなってしまう。だからこそ、父として、男として、お前に言わなければならない」
「あのー、何の話を」
 一呼吸置いて、父の両手が息子の両肩に置かれる。
「避妊は「シ」にさらせ」
 し、の発音が重なったところで、由姫の右フックが直人を襲った。なぜか満足げな顔のまま、直人は気を失った。
「由姫、由姫」
 1RでのKOを達成した由姫に、はるかが図ったように声をかける。ボクサーと化している由姫はギラリと光る目つきで「あぁん?」と、ガラの悪い兄ちゃんのごとく返事をした。
「わたしたち、ふたばのことは知ってたの」
「はい?」
「ねー?」
「ねー」
 困惑している少年を置き去りに意思疎通をする女性二人。首をそれぞれ同時に傾げて、呼吸ぴったり動作ぴったり。まるで往年の知り合いのようである。
「それにしてもびっくりですよ、由姫さん」
「な、ナニがデスか?」
 うろたえるあまりエセ外人と化す由姫。しかし彼の髪の色は黒であり、肌も黄色人種のそれであるので、どう見てもコント下手でネタに失敗しスベった素人芸人に見えて仕方がない。
「まさか先生の息子であらせられたとはー」
 先生:せんせい。せん・せい。学問などを教える人。自分が教えを受けている人。師。師匠。学校の教員。
 ※抜粋:鳴沢由姫脳内辞典第5版初版より。
「先生と言うのはアレか、「さき」に「なま」と書いて先生と呼ぶあの公務員のことでしょうか」
「世俗的にはそうですねー、わたしとイサナにとっては親も兼用でしたけどー」
「ウェイー!?」
 ということは。由姫は思い至った。
 二日前にふたばの口から出た一つの単語、「先生」。最後まで自分の名を明かさず、数年前に別れたという先生が、由姫の母親だと言うのだ。
 確かに由姫は自分の両親がどんな仕事をして、なぜ海外に行っていたのかよく分かっていない。公演と手紙にはあったのでてっきり音楽関係と思っていたのだが、バイオ関係だったとは。そんな風体には見えない父と母を交互に見て、この世は不条理と不思議と不可思議でいっぱいだなあ、と由姫はぼんやりと考えた。
「まあ、それは置いといて」
 ジェスチャーをして、由姫は椅子に腰掛けた。
「結局母さんたちは何しに来たの?」
 そう、由姫が訊きたいのはそれだった。帰るという連絡もなしに突然の帰宅。何故、と思うのは当然であった。
「んーとね、」
 言うのを躊躇うような、はるかの仕草。何か重大なことがあるのか!? 由姫は期待と不安にかられ、心なしか心拍数が増したような錯覚を覚えた。
「……言っても怒らない?」
 マテ。
「……聞いてみないことには」
 出来る限りの譲歩。はるかの口調からして、由姫に関係ある確率が四百%を超えていること間違いなしである。
 いくばくかの沈黙。
「実はー」
「実はー?」
「直人がー」
「父さんがー?」
「公演でー」
「公演でー?」
「遺伝子についての考察ちゅータイトルでー」
「遺伝子についての考察ちゅータイトルでー?」
「熱弁の果てにー」
「熱弁の果てにー?」
「自分を例にとってー」
「自分を例にとってー?」
「『私の家族は世界一ィイイイ!』とか言って由姫のあんなデータやこんなデータを」
「おい起きやがれ、今すぐ涅槃とお花畑と幽子を生きたまま拝ませてやる!」
 気絶したままの父親の胸倉を掴み、容赦なく左右前後デンプシーロールと回す由姫。起こすどころか閻魔大王に会いに行かせそうな動きである。
「家庭内暴力は駄目ですよ由姫さんー」
「お前は今の話を聞いて俺に同情のどの字もねえのかー!」
「ま、それが原因で追放されちゃったんだけどねー、あははー。それで懐かしの我が家に栄光の凱旋ってことよあははー」
「あははじゃねえ、あははじゃねえよ母さん」
 この父とこの母から生れ落ちたという事実を呪い、由姫は人知れず泣いた。
「おかげでギャラの2/3がパーだけどねー。まあ五百万円くらい論文の三つや四つ出せばなんとかなるでしょー」
「あんたらの金銭感覚を一回脳を切開して調べてみたいんですが」
 けらけら笑う母親の頭はおかしいんじゃないか、と息子は疑った。疑わずとも、それは明らかなのだが。
「ま、その話はもういいわ」
 はるかは話を打ち切って、浅めに息を吐いた。
「由姫、大体のことはふたばから聞いたと思うけど」
「……ああ、うん」
 はるかが言う「大体のこと」とは、イサナのことを言うのだろう。聞き返さずとも、由姫にもそれぐらいはわかった。
「イサナに何があったのかは覚えていないのね?」
「……まあ」
 頷く由姫。ばつが悪そうな息子を睨めつけてからはるかはほがらかに笑った。
「ん、まあ、いいでしょ。正式に許可するわ、ふたば」
「はい、ありがとうございます先生っ」
「え、な、なにを?」
 以心伝心の女性人に置いてけぼりにされて、ひとり挙動不審全開の由姫。おろおろとするその様は、浮気がバレて修羅場中のしがないサラリーマンのようである。
「ニブいわねー、だから、ふたばがここに住むのを正式に認めるのよ。あんたは今のところは家主だけど、まだ未成年だし。親の許可は形だけでも必要でしょ?」
「あ、あー、うん、それもそうダスね」
 まだ混乱状態の由姫はどこぞの方言で対応する。理解力に少し難があるようだ。しかしはるかはそんなヤバげな息子を労わろうともせず、
「んじゃ、わたし達はそろそろお暇するわよ。飛行機に間に合わなくなっちゃうから」
「え、帰ってきたんじゃないの?」
 やっとのことで現実を直視できた由姫は母親に顔を向け、目の前にぶら下がったロープを掴む。はるかはそれを確認し終えると、
「いやー、次はイギリスに行かなきゃいけなくてねー。人気者はつらいよ」
 あははー、と気楽に笑い、まだ気絶している直人の首根っこを掴んだ。そしてそのまま軽快なステップで歩き出す。由姫は自分の母親は人間なのだろうかと一抹の不安を覚える。
「ま、二人とも、気楽にね。重く考えちゃうと、際限がないからね」
 直後、玄関のドアが閉まる音。見送りもさせず、台風のように両親はやってきて、去っていった。由姫は石像のごとく固まっている。
「先生、昔とそんなに変わってなかったです」
 懐かしそうにふたばは呟く。由姫は、「変わっていない」という言葉を受けて、順序良く想像してから戦慄する。
「まあ、それはよしとしましょう」
 ぽんと両手を叩いて、ふたばは心底嬉しそうに笑った。
「改めて、よろしくお願いしますね。由姫さん」
 握手を求め、右手を差し出すふたば。由姫は一瞬戸惑ったものの、すぐにその手を握る。
「ああ、よろしく」
 その時、その時を見計らったかのように、チャイムの音が室内に響いた。ぴんぽーんぴんぽーん。
「あ、俺が出るよ。たぶん母さんが忘れ物をしたんだと思うから」
 ふたばを制し、由姫が率先して玄関へと向かう。インターホンから出れば早いのだろうが、こんなにも連打をしてくるのはきっと知り合いだから、と即決した。
「はいはーい、どなたです「失礼します!」って、緋澄、どうし……」
 ドアを開けるとその隙間から、緋澄が素早く中へと入っていった。あまりの速さに、由姫の言葉は最後まで発せられることはなかった。
 リビングに緋澄が消えてから三秒後、玄関でぼけっと突っ立っている由姫を、緋澄が手招きする。
「え、あ、その、ひ、緋澄、どうかしたのか」
 状況が飲み込めない由姫だったが、ふらふらとその手に吸い寄せられるように歩いていく。リビングに入ると、緋澄がふたばの隣に陣取っていた。心なしか、目が釣りあがっている。正体不明の威圧感に、由姫は圧された。
「先輩」
「はい」
 由姫は果てしなく弱かった。
「今日からわたしもここにお世話になりますのでっ!」
「へ」
「部屋はひとつ余ってるんですよね、そこを使わせていただきますからっ!」
「な、なんで知ってんだ?」
「あ、はるかさんの許可は頂いておりますので、ご安心を」
「なにに安心しろとおっしゃいますか」
 一気呵成にまくし立てる緋澄に押される由姫。ふたばはその光景をきょとんとした様子で見ている。
「いや、あの、緋澄さん。いったいなぜに」
 下手に出るところに、由姫の弱さがこれでもかと滲み出ていた。緋澄は由姫に訊ねられるとくるりとふたばの方を向いた。
「先輩は私が立派にお世話をします!」
「は、はぁ……」
 あのふたばでさえ、緋澄の迫力に圧されている。由姫は「緋澄も物好きだなあ」とか、現実逃避に全力を注いでいた。
「先輩に相応しいのはわたしなんですから!」
「はい?」
 捨て台詞とも受け取れる言葉を残し、緋澄は高速で二階へと駆け上がっていった。残されたのは、静寂と、石像にされてしまったふたばと由姫、そしてなんともいえない複雑な雰囲気。
「……あの、由姫さん。訊きたいことが」
「……なんでしょうか」
「……結局、あの人誰ですか?」